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「丘の手から」 第3回 野庭は

「野庭(のば)」もそうだけど「大庭(あおば)」みたいに「庭」の字を「ば」って読むのは、ずいぶん古い読み方らしい。辞書には「宮殿前にある大きな庭、物事が盛大に行われる広い場所のことを大場、大庭、オオバ、オオニワと呼んだ」とあり、今は地名や「姓」などに限って使われているようだ。つまり「野庭」もきのうやきょうの地名ではなく、鎌倉時代には「郡」として成立していたらしい。たぶん、この地を開拓した和田義盛がちょっとした平原を確保して「庭(ば)」と呼ばれるようになったのだろう。

あの「和田合戦」では、鎌倉で、ほぼほぼ決着がついた後にも、まさにこの地が「最後の砦」となって抵抗は続き、悲惨な戦いが続いたという。今の野庭中央公園あたりが、彼らの城の中核。上永谷駅から港南台駅に向かう45系統の市営バスに、上永谷方面から乗ると、16号をそのまままっすぐ行けばいいのに、「天谷」のバス停から「みやぼくぼ」まで4つのバス停を、弧を描いて、路線は野庭団地をぐるりと一周するように迂回するけれど、これが城の縄張りだったようだ。ここでかれらは「城を枕に」ほぼ全滅だったという。ストラスブールさんの脇、坂口入口の信号から上永谷駅方面に坂を下っていくと、今も並走する流れがあるけれど、あるおじいちゃんは、この小さな川が血で染まったんだと見てきたように語っていた。(正式な伝承記録は見つけられなかったけれど)。

(今はずいぶん土を取っちゃって、、さらにおおきな「平ら」を確保して、団地になっているんだろうけれど)

かつての野庭高校のあたりには「政所橋」という名前の橋が残っているが、これは和田氏なきあと、執権北条家が統治するようになって、いっとき、この地が、北条時宗の奥方=覚山尼が開いた鎌倉の東慶寺(あの縁切寺)の寺領だった時代に、ここに現地統括事務所があったことに由来する。

この辺りを再開発した人々が、こうした「ときのレイヤー」の一枚一枚を大切にしたとは思えない。どちらかといえば、丸坊主にしていったきらいがある。でもね。歴史はしたたかだし、しぶとかった。

そういうことなんだと思う。

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