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初代内閣総理大臣、伊藤博文が大河ドラマにならない訳を考えてみた

最初にお断りしておきます。記事に関する政治的な右派左派の捉え方は様々あると思いますが、どちらかに与する意図はなく、あくまで史実に基づき、中庸、是々非々の立場からの私見であります。朝鮮半島の人々を傷つける意図や偏見は一切ありません。

幕末から明治の時代で大河ドラマと言えば、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、徳川慶喜が思い浮かびます。幕末、明治維新の偉人たちであります。一方、伊藤博文?、明治政府の人?、旧千円札の肖像の人?くらいが多数の認識であろう。学校の授業で習うこともなく、視聴率も見込めない地味な印象と、加えて、伊藤については、暗殺、日韓併合と極めて政治的に敏感な歴史があり、恐らく今後ともドラマ化される事はないでしょう。

韓国における三大悪日本人は、豊臣秀吉(朝鮮出兵)、福沢諭吉(脱亜論)、伊藤博文(日韓併合)らしい。他国の国民的感情を推し量っても仕方ないので、ここは冷静に、あくまでも史実に基づき考察していきたい。

1842年アヘン戦争敗北以降、清の衰退は著しく、欧米列強の帝国主義に対する日本の危機感は半端なかった。ちなみに、アヘン戦争ほど卑劣な戦争はないであろう。簡単に言うと、イギリスが、違法ドラッグの麻薬を国家貿易の商売として、清に売り、大儲けしていた。国民のドラッグ漬けにさすがの清も輸入禁止にしようとしたが、逆ギレしたイギリスが武力行使して、香港を奪った。暴力団、マフィア顔負けの暴挙であり、さすがにこれは清に同情する。

とにかく当時の欧米列強帝国主義は、白人至上主義の極みであり、アジアの小国など、隙を見せれば国が乗っ取られ、植民地にされる。この危機感が、鎖国を続けてきた幕末の日本を、近代化へと一気に推し進めようとする。

さて、伊藤博文は長州出身で、吉田松陰の松下村塾で学んだ。1863年、22歳の時、長州藩による密航留学生として、イギリス、ロンドンに渡航留学する。わずか半年余りだったが、伊藤の英語力は相当なもので、日常会話には不自由なく、後に下関砲撃事件の講和において、長州藩交渉役、高杉晋作の通訳として活躍する。

長州、吉田松陰と言えば、尊皇攘夷(天皇を尊び、異国を打ち払う)論者でありますが、イギリスの近代文明に触れた伊藤博文は、攘夷から開国論者に転換する。戦争をして勝てる相手ではないことは、留学中に思い知ったはずです。

1867年明治維新を経て、伊藤28歳の時、英語力を買われ、明治政府で外事担当となる。1871年、岩倉使節団の一員として、世界を外遊。日本政府のトップたちが、西洋の文明、思想を吸収しようと国を挙げて取り組む。出発から1年10か月後の1873年に帰国するが、留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われていた。排日運動の高まりと供に武力行使も辞さずという征韓論者と、他国にかまっている余裕はないという岩倉使節団帰国組の慎重派が分裂する。

西郷隆盛は、征韓論者と見られているが、当時は、武力行使派を抑え、丸腰の遣使として李氏朝鮮との開国交渉役になる事が決まっていた。自らの命と引き換えに武力行使の口実を作るためと臆測されるが、結局、遣使は中止となり、西郷らは政府を離れ、後の西南戦争となる。朝鮮半島の状況は全く変わらないままであった。

伊藤は、明治維新の第二世代として、大日本帝国憲法制定、内閣制度の確立と近代日本の礎を築き、1885年、初代内閣総理大臣に就任した。就任時の年齢は44歳で、この最年少記録は未だ破られていない。

欧米列強は、ロシアの南下政策を警戒しつつ、朝鮮半島の開国を望んでいたが、そのコストと見合う利益を吟味している状況で、誰かが先陣を切って欲しいと、隣国の日本を期待を込めて様子見していた。結局、日本は、日清、日露戦争という莫大なコスト、犠牲を払い、朝鮮半島の独立と統治権を得た。

日清戦争に勝利した日本は、1895年下関条約を締結し、李氏朝鮮の冊封体制離脱、即ち清からの独立が確認された。国内体制を改めて大韓帝国となり、初代統監に伊藤博文が就任し、保護監督の下、近代国家を目指した。既に4回も内閣総理大臣を務めた大御所政治家伊藤が、なぜこのポストを受けたか、理由はわからないが、朝鮮半島をいかに重視していたか、日本の本気度がわかる。

朝鮮半島のインフラ整備はとてつもない規模で行われた。道路、鉄道、ダム建設、学校、病院、製鉄、紡績、鉱業など、日韓併合前の1907年〜1910年、 約1億400万円(現在価値約18兆円)が援助された。日韓併合時(1910年)には明治天皇より、臨時恩賜金として3千万円(現在価値約5兆3千万円)が送られている。日韓併合時代35年間を含め、現在価値で総計約60兆円の投資規模となった。

人的交流として、大韓帝国最後の皇太子、李 垠のもとに皇族女性を嫁がせ、姻戚関係を結んでいます。その女性が、日本人皇族の方子(まさこ)妃です。ちなみに韓国映画「ラストプリンセス」の主人公は、皇太子、李 垠の妹にあたります。ラストプリンスを無視し、プリンセスを主人公にする未だに徹底した排日ですね。

伊藤博文は、最後まで日韓併合に反対しました。理由としては、経済的コストがかかりすぎる事と、将来の完全自治が目標だったから。当時のイギリス香港統治を手本にしながら、緩やかな統治と貿易拠点としての商業都市を目指していたのではないか。実際、岩倉使節団では、香港も視察しているし、その経済発展は目を見張るものがあった。そのための設備投資であり、勿論日本もその利益を国益としたかった。ただ、余りにも抗日、反日感情が強すぎた。この感情については、前回記事で述べている。

1909年10月、伊藤博文暗殺事件起こる。伊藤が韓国の独立運動家、安重根に満州のハルビン駅で暗殺された。統監を辞任し枢密院議長に復帰していた伊藤は、日露関係を調整するため、ロシア蔵相と列車内会談を終えた直後に凶弾に倒れる。併合反対だった伊藤を失い、事件をきっかけとして、翌年韓国併合となる。

韓国を訪れた新渡戸稲造が、韓国統監だった伊藤博文に面会した際には、「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。」(新渡戸稲造『偉人群像』)と述べ、その資質を高く評価していた。

当時の歴史を検証、再評価もせず、未だに伊藤博文を極悪人扱いし、暗殺者安重根を英雄として祭り上げている。感情としてそれらを仮に良しとしても、朝鮮戦争後、大国の思惑のまま南北分断国家であり続け、その現状から、一切抜け出すこともなく、反日、排日を国是としている南。北は未だに独裁制封建国家であり、核保有とミサイルを発射する以外に何の国家的ビジョンもない。民衆の蜂起もクーデターもなく、李朝時代からなんら意識は変わっていないと言わざるを得ない。

かつて西郷隆盛が命を賭して李朝遣使をかって出た。伊藤の脳裏にも、かつての西郷の遺志がよぎったに違いない。考え方は違ったが、朝鮮半島を含め、日本、東アジアを欧米列強に負けない近代国家にしたいという最終目標は同じだった。犯人を知った伊藤の最期の言葉が、「馬鹿な奴だ…」であったが、現状の朝鮮半島、南北分断国家が、果たしてその言葉に抗弁出来るのであろうか。


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