写真生態系論
いろんな人のいろんな写真を見ていると、つくづく思う。
全部いい。
どんな写真にも、それを撮った人の意図と工夫があって、写りのバリエーションが様々にあって、写真への取り組み方も様々にあって、全部いい。
これはもう、プロもアマチュアも関係ない。
本当にもう、全部が同列に見える。
フラット化する写真。
凸凹としていた写真は、徐々にならされて、フラットになってきた。
昔は高峰のような存在もいたけど、今はもうそんな時代じゃない。
機材はならされ、テクニックはならされ、表現の仕方はならされ、見せ方はならされた。
そんな時代であっても、決してならされないもの。
それは撮る人の個性。
機材もテクニックも表現も、全てが流動的に垣根なく流れるこの状況の中でも、いや、そのような状況であるからこそなお、個性は際立つ。
流動的に全てが流れる時代にあって、如何ともしがたく流されないもの。
それがハッキリと、見て取れる。
…
昔の「いい写真」って、どこかお仕着せな感じがあった。
皆が同じものを目指していた。
高度経済成長やね。
売れるのはいいこと、成長はいいこと。
ガンガン働いて、ガンガン稼ごう。
単純明快に「いい写真」を目指した。
メディアも情報も少なかったし、「これがいい写真」という指標を、誰もがシンプルに目指した。
何が幸せかは知らないよ。
何がいいのかも知らない。
ただ、昔には無かったこの多様性に「くつろぎ」は覚える。
あれもある、これもある、それもある、どれもある。
この多様性に安心感を覚える。
「何でもいいんだ」ってね。
写真は手軽な表現手段だけど、それがまた生きてる。
昔は絞りもシャッタースピードも知らなかったら、「写真をやる資格はない」なんて頑固オヤジに怒られそうだったけど、今はそんなの当たり前。
最低限の知識すらなくても、シャッターは切れる。
そしてシャッターを切れば、写真が写る。
写真が写れば、ネットに流れる。
ネットに流れれば、僕らの目に触れる。
僕らの目に触れると、写真が撮りたくなる。
そしてまたシャッターは押される。
まるで生態系のように循環する写真は、もはやひとつの生態系。
1枚1枚の写真は、一粒の土、一滴の水、一本の木、一匹の動物のように、それぞれの役割を全うしながら、生態系の一端を担ってる。
写真をひとつの生態系と見た時、どうだろう、この豊かさ、この健全さ。
かつての高度経済成長のように、少ない持ち駒と決められた動きでぎこちなく理想を目ざした頃より、圧倒的にリアルで、圧倒的に豊か。
知らんよ、何がベストとか、何が理想とかは。
清濁混在のリアリティと、ウソみたいな表現が平然と日中大通りを闊歩する現状は、生々しくてより本当に近い。
だから安心する、だからくつろげる。
生体のリズムに合致する。
写真は今、野生に還った。
フィルムにデジタル、スマホにフォトショ、あらゆる機材、あらゆる表現手段、あらゆる個性。
誰がどこで何をしても、ちゃんと生態系内において役割を果たしてる。
何を意図しなくても、ちゃんと生きてるし、ちゃんと生かされてる。
全ての個性の全ての活動が、豊かな拡大につながる。
開放された個性が何を見せてくれるか、生態系がどこへ向かうか。
ミクロな意味でもマクロな意味でも、写真が面白い時代。
そんなことを思いながら、今日もタイムラインを眺める。
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