上手く撮るだけが写真じゃない、誰にでも撮れる「いい写真」というものがあります。
写真は上手くないと楽しめないのかというと、そんなことはありません。
写真は誰でも、楽しめます。
写真を上手く撮るというのは、楽しみ方のひとつであって、それだけが写真ではありません。
今回は写真における「上手く撮る」じゃないほうのオプションをご紹介します。
それは言ってみれば「本質的な写真」です。
それは、写真の腕とか機材の良し悪しで撮る写真ではなく、「あなた自身」で撮る写真です。
あなたの個性を100%発揮した写真です。
あなたの個性を100%発揮した写真は、それが真実であるという意味においてアートであり、「いい写真」です。
でも、それは必ずしも世間の評価を得るわけではありません。
だから、いいのか悪いのか本人には判断がつかない場合もあるでしょう。
でもそれは「いい写真」です。
(この記事を読めば、本人にも判断がつくようになるでしょう)
いわゆる「上手い写真」を撮るには、向き不向きがあります。
上手い人もいれば下手な人もいます。
でも、今回解説する「いい写真」には、向き不向きはありません。
上手い人も下手な人も、同じように撮ることができ、楽しめる写真です。
(全文10,700字)
---目次---
1.いい写真の「いい」って何
2.写真の内容を決定づける3つの要素
3.「感じる」とは何か
4.感じたことの「意味」は変更可能
5.本当に意味のある写真の撮り方
6.世界は本当に退屈か?
7.「評価」と「本質」
8.これからの写真
おわりに
1.いい写真の「いい」って何
写真は、目の前の場面が「いい」って思えるからシャッターを切るわけですが、それはつまり、「いい」と思えなければシャッターを切れないということです。
逆に言うと「いい」と思わないのにシャッターを切ると、必然的によくない写真が出来上がります。
いい写真のためには、まず最初に「いい」と思う必要があります。
写真の生み手がそもそも「いい」と思わないのに、その写真が「いい写真」になる道理はありません。
撮る前に「いい」と思うことは、いい写真の「前提」です。
その人の個性で写真を撮る場合、まずスタートとなるのは、その個性が「いいと感じること」です。
「いいと感じたこと」が、テクニックや機材を通過して、最終的に2次元の写真に定着します。
写真は最初の「どう感じるか」が、とても重要です。
でもその割には、「感じる」については閑却されがちです。
みなさん、機材やテクニックといった、「外のこと」には熱心なのに、自分がどう感じているか、みたいな「内のこと」にはあまり関心を持ちません。
本当は写真を作るのは「自分」なわけだから、自分にもっとも関心を抱かなければおかしいはずなのに。
それはつまり、みなさん「機材が写真を撮る」「テクニックが写真を作る」と思っているわけですね。
でも、機材やテクニックがあっても、「自分」がいなければ、そもそも写真は完成しません。
優先順位は言うまでもありません。
機材やテクニックの「前に」自分がきます。
いい写真のためには、機材の質を上げるよりも、テクニックの質を上げるよりも、「自分」の質、「感じる」の質を上げるほうが先決です。
ですからここでは、「感じる」について知るところから入りましょう。
2.写真の内容を決定づける3つの要素
まずは、写真の内容を決定づける要素を確認して、その中で「感じる」がどのような役割を演じているのかを見ていきます。
■写真を撮る「理由」
あなたは、なぜ写真を撮りたいと思いましたか?
・単純に趣味が欲しいから。
・好きなコがやっているから。
・なんとなくおもしろそうだから。
・子どもが生まれたから。
いろんな理由があるでしょう。
その「理由」と写真の出来は直結しています、もちろん。
やむにやまれぬ衝動と、湧いてくるインスピレーションに忠実に、どんな困難をも乗り越えてなんとかかんとかゲットした1枚。
それから「ヒマだからなんとなく撮ってみた」1枚。
はたまた子どものかわいい表情を撮りたくて撮った1枚。
これらは自ずから全く違う写真になるハズです。
■持って生まれた「適性」
そしてもうひとつは、本人の適性。
つまり「才能」ですね。
ガッツと努力で一生懸命撮っても、全然パッとしない場合もあるでしょうし、「ヒマだから始めてみた」でも、すごいのが撮れちゃう場合もあるでしょう。
それはその人の「適性」が作用しているわけです。
どんなにがんばっても全然できない人もいるし、全然がんばらなくてもサクッと出来ちゃう人もいます。
それは生まれつきの「個性」であり、後からはどうしようもない要素です。
■後天的に身に付ける「学習」
さらには、「学習」。
後天的に身に付けた撮り方や経験によっても、写真の内容はもちろん左右されます。
この、
・理由
・適性
・学習
これが、写真の内容を決定づける3大要素です。
■「感じ方」のポジション
そして「感じ方」は、この中の「適性」の部類に入ります。
つまり、それは持って生まれたものであり、後からの変更は不可ということです。
「感じ方」は、「顔」みたいに物理的な個性ではないので、整形手術みたいに後からの変更は不可能です。
あるいは、脳ミソに電気ショックを与えて神経の配列を変更などすれば、感じ方を変えることはできるかもしれませんが、その必要はありません。
「感じ方」は変えられないし、変える必要もありません。
今あなたが持っている感じ方を、そのまま使えばいいのです。
3.「感じる」とは何か
そもそも、生きている上で「感じない」ということはありえません。
暑い寒い、楽しい嬉しい悲しい悔しい。
「感じる」と「生きる」はほとんどイコールと言ってもいいくらいです。
だから、ある場面を前にして何も感じないということはありえません。
「何も感じない」と思っているのは、実は「感じない」のではなく、「感じるんだけれども、その感じになんら積極的な意味を見出せない」ということです。
あるいは「退屈」や「平凡」や「つまらなさ」を感じる、と言ってもいいでしょう。
■「感じ方」=「個性」=「あなた自身」
同じ映画を観ても、ボロボロと涙を流して感動する人もいれば、「ふーん」としか思わない人もいます。
同じ場面を目の前にして、「すごい!」と前のめりでシャッターを切りまくる人もいれば、「何が面白いの?」とポカンとしている人もいます。
それは「個性」の違いです。
「背が高い人・低い人」「気の強い人・弱い人」がいるように、ある場面に「面白さを感じる人・感じない人」がいるのです。
「どう感じるか」は、その人の個性です。
そして「個性」によって、人は成り立っています。
ですから、「あなたが写真を撮る」とはつまり、「あなたの感じ方が写真を撮る」とも言えるのです。
■「感じたもの」は変更できない
そんな「感じ方」。
それは、写真撮影において、最も初めの「出発点」になるものです。
機材やテクニックは、「感じたもの」を2次元の写真に定着させるための「手段」です。
どんなに素晴らしい機材やテクニックを持っていても、最初の「感じたもの」が良くないと、あんまり意味がありません。
最初の「感じたもの」がマズいままに、機材やテクニックで写真を立派に仕上げたとしても、それは心のこもらない、見た目だけ立派なプレゼントです。
受け取った人は、あんまりうれしくないだろうし、ひょっとしたらそのまま質屋で換金してしまうかもしれません。
そんな大事な出発点となる「感じたもの」ですから、それが「退屈」や「平凡」や「つまらない」だった場合は大いに問題です。
なんとかして、「素敵!」とか「すごい!」とか「最高!」って思わなくてはいけません。
…しかし、そんなことって可能でしょうか?
感じ方は個性であり、後からは変更不可能でした。
変更ができない感じ方が「つまらん」と感じたものを、あとから「素敵!」って思い直すことなんてできますか!?
もちろんそれはできません。
■「退屈」「平凡」「つまらない」の本当の問題点
じつは、感じたものは「退屈」でも「平凡」でも「つまらない」でも全然問題ないのです。
それはその人の「個性」ですから、何の問題もありません。
それを偽って、「素敵!」とか「すごい!」とか無理に思うほうが、むしろ問題です。
「退屈」や「平凡」や「つまらない」は、それ自体が問題なのではありません。
本当の問題は、それを「消極的な意味」に理解していることです。
「退屈」「平凡」「つまらない」は、イコール「ダメ」ではありません。
「退屈」「平凡」「つまらない」は、ほとんど反射的に「ダメ」と結びつけられていますが、本来「退屈」「平凡」「つまらない」はただ単に「退屈」「平凡」「つまらない」であって、「ダメ」とは無関係です。
4.感じたことの「意味」は変更可能
「トム・ソーヤ」のペンキ塗りのお話はご存知でしょうか?
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