あなたが撮りたいのは「撮りたい写真」ですか?それとも「いい写真」ですか?
先日、囲碁の井山裕太九段に関するこんなツイートをしました。
録画していたNHKの番組を見ての感想ですが、囲碁界最強の棋士から語られた「打ちたい手」という言葉に、非常に感銘を受けました。
普通の棋士なら、盤上で求めるのは「最善手」や「打つべき手」です。
しかし彼の場合は、「打ちたい手」です。
「それって結局最善手のことじゃない?」って思われるかもしれませんが、「最善手」と「打ちたい手」は全然違います。
打ちたい手は、必ずしも最善手とは限りませんし、最善手もまた、必ずしも打ちたい手とは限りません。
この話は、写真にも非常に通じるところがあります。
「いい手」と「打ちたい手」の違い
「いい手」と「打ちたい手」。
この違いを客観的に物語るのは、それを見たときのまわりの反応の違いです。
「いい手」の場合には、「なるほどこいつはいい手だ!」といった反応になります。
誰が見ても、「おお~、いいね!」ってなるのが、いい手です。
それに対して「打ちたい手」の場合には、「は?!なにソレ??」ってなります。
実際テレビでやっていた、そんな場面に出くわしたときの、まわりのプロ棋士の反応がそうでした。
「え!?」みたいな。「なにソレ??」って。
将棋の羽生善治が若い頃、当時の第一人者だった加藤一二三を負かしたときにも同じような場面がありました。
羽生の手に「うわー!すごい!!」と、解説者も思わず叫んでいました。
「こんな手があるのか!?」と驚愕の叫びです。
この違い。
・いい手=万人が認める手
・打ちたい手=万人の認識を逸脱した手
つまりはこういうことです。
この違いをさらに推し進めると、
・いい手=万人が認める手
・打ちたい手=自分だけが認める手
となります。
実際、井山九段も、テレビの中で、そういう独創的な手を繰り出す秘訣を問われて、「自分を信じること」と言っていました。
自分を信じるからこそ、その他大勢が認めなくても、自分だけが認めた手を打つことができるのです。
そういった手を繰り出すためには、自分以外の大勢の圧力に屈しない、強い自分である必要がある、とも言えますね。
「いい写真」と「撮りたい写真」の違い
さて、この話をそのまんま、写真にスライドしてみましょう。
・いい写真=万人が認める写真
・撮りたい写真=自分だけが認める写真
となりますね。
あなたは、万人が認めなくても、自分だけが認める写真を、果たして撮ることができますでしょうか?
「自分がいいと思う写真と、万人がいいと思う写真が一致している」
そういうことはもちろんあるでしょう。
しかし、世界にただ一人のユニークな存在であるあなたが、毎回万人と同じ意見であることには無理があります。
きっと、万人の意見に左右されない、あなただけのオリジナルの意見もあるはずです。
そんなの無いというなら、それは、自分の意見に目をつぶっているか、そもそもそんな意見を見ようとしていないだけかもしれません。
最強の写真
囲碁界では、井山九段が「打ちたい手」によって天下を取りました。
なぜか?
それは「打ちたい手」が最強だからです。
最善手?万人の意見?そんなの関係ない。
その人の内から催してきた、「それしかない」という至上命令は、言ってみれば天の声です。
それはもはや「その人の個人的意見」ではなく、天から降ってきた、人知を超えたインスピレーションです。
人知でやっている他の棋士に勝つのは当たり前です。
必要なことは、それをキャッチできるまでに実力と感覚を研ぎ澄ますことと、それについて確信を持つことです。
写真をやっている人が「いい写真を撮りたい」と思うのは、まあ普通の衝動でしょう。
いい写真を撮って褒められたい、チヤホヤされたい、自己満足したい。
結構なことです。
あなた本来の独創的な写真なんて、別に必要ないでしょう。
仮にそんな写真を撮ったとしても、まわりの反応は井山や羽生のように「は?!」「なにソレ?!」ってなるのが関の山かもしれませんし。
これが囲碁や将棋のような「勝負の世界」なら、勝てばその正しさを証明できます。
でも、写真のような芸事の世界では、「正しさ」は証明できません。
実際、本来の自分の絵を描き続けたゴッホは、生前は全く絵が売れず、不遇のうちに生涯を閉じました。
そんなことやっても徒労、ただ本人だけがその真実を知る、という結果に終わるかもしれません。
でも、もう一度言いますが、囲碁では「打ちたい手」が最強です。
写真なら「撮りたい写真」が最強です。
あなたはどんな写真が撮りたいですか?
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