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63日目 道端のごみ

学校で勤務していた頃、子どもたちに伝えていたことの一つに、「ごみを拾うこと」があった。
自分が捨てたものでなくても、拾ってごみ箱へ捨てる。
「護美箱」という当て字もあるという実践は結局やれずじまいだったが、それでも事あるごとにごみを拾う大切さを伝えてきた。

遠足などに行って、「来た時よりもきれいにして帰りましょう」と呼びかけるようなことは、日本ではおなじみなのではないだろうか。

なぜ、ごみを拾える人になるとよいのか。
あまり意識していなかったが、今思うとここには、「気付く力」を高めさせたいという狙いがあったと思う。
注意力、と言ってもいいだろう。
子どもたちに、「我関せず」という態度を身につけて発信していく人にはなってほしくない。
そんな思いと願いが、ごみ拾いの指導にはあったように思う。


昨日、私は2回、職場内でごみを見つけた。
1回目は、階段に落ちていたマスク。
2回目は、廊下に落ちていたティッシュだ。
私は、拾わなかった。
あれだけ学校で伝えていたことを、実際に自分がやっていないことに気付いたのだ。
もちろん、学校にいるときは率先して拾っていた。
なのに、仕事が変わった今、私は子どもたちに伝えていたことを実行できていなかった。
自分自身に、後ろめたさを感じた。
いったいなんのために、教師として子どもたちと関わってきたのだろうか、と。

パフォーマンス?
見ていないところなら、行動が変わるのか?
それならば伝えてきたことは何だったのか?

文書主義、文書に準拠して仕事をするのが今ならば、学校現場は行動主義ではないのか。
そこで培ってきたことを生かせないなら、後退していることになるのではないか。
ごみを拾わなかった自分を省みて、そんなことを考えた。
そこは、信念を貫ける人でありたい。

だが、今朝。
駅に行くまでの通勤の道で、道端に落ちていたのは…
キムチだった。
キムチのパックが。
二つ。

いや、これは拾いたくない…。

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