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one for all/all for one

工業生産時代の教育に育つと、それだけで「言葉の解釈は我田引水」そして「バカのひとつ憶え」になりがちだ。
スイッチはONとOFFしかついておらず、自分の事ばりで周囲に気を配ることができない。しかも自分については個別的な注視を要求しながら、他者はみんな自分と同じように考えると勝手に断定し、そうでなければ「変わり者」だと認識する。

それでもベルトコンベアの前に座って流れ作業をこなす工員なら、特に問題にはならなかった。もちろん、就業時間外は別のはずだが、たいていの学校教育は、そこのところはおざなりだった。
僕が子どもの頃は嫌というほど「行進」の練習をさせられ、組体操をさせられ、「班」ごとの共同責任を訓練し、「何ごとも集団で」を徹底するが「個人として他者を思い遣る」は自主性に任された。
「学園もの」のテレビ・ドラマでも、「個人」を大切する「みんな」が美徳とされただけで、まず物語は「集団」に属していることから始まった。それがスタンダードだよと徹底された。

「one for all/all for one」

「all」のためじゃないとダメかって思うし、実際は「私」以外「私」じゃないのに、「all」は「one」のためにどこまでできると思う。

でも

被災地の状況を考えても、政府や自治体は即戦力になる政策を立ててくれない。近頃は平時でもそうだ。

高い税金を支払っても。

どうしよう。

とにかく待ってちゃダメだ。自分のチームは自分でつくる。自分の自律力も高めておく。誰かに補完してもらえると思っても、助けは来ないという前提で考えておいた方がいい。

「one for all/all for one」は、学校教育やTVドラマなどによって仕掛けられたイリュージョンだ。

…騙された。でも腹を立てていてもしょうがない。ここは「損切り」だ。

大都市を中心に、そろそろ食料の調達がおぼつかなくなってくる。この国、エレルギーの自給率は10%台だ。その上で、横浜市などは1日あたりの支払い利息は一億円以上。そう長くは持たないだろう。こんな状況も東京都以外、全国似たり寄ったりだろう。

為政者に「自助」と言われるのはムカつくが、「無防備」にいるのも得策とはいえない。
ホントはもう遅いのだけれど、今からでも準備はしておいた方がいい。「円」だってこんな感じなんだし、前の敗戦時のように「買ってくる」が効かなくなる可能性もある。

「躊躇(ちゅうちょ)」が一番怖いと思うよ。