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できなくてフツウ されど

僕は僕。なかなか変わることはができません。自分をアジャストするのは生半なことではない。それでレギュラーです。でも、時代はあっけなく変化します。気がつくと平らな雪原に、雪の皮一枚、深いクレバスが横たわっていることもあるわけです。

例えば、明治維新や前の敗戦のとき。庶民には何の予告もなく、でも「これまで」と「これから」の間に深いクレバスが横たわっていた。頼みもしないのに変わる。命令に従ってきたのに…

理不尽、極まりない。そのとおり。でも、クレバスは横たわっている。今もそうです。新型コロナ災禍がクレバスを露わにします。

このクレバスを渡らなければ「これから」を行くことはできない。立ち止まっていれば凍死。後戻りもできない。だって、時代は「これまで」に戻ることを許さない。そうでなければ、僕らは未だに髷を結っているのかもしれないし、武士がいるのかもしれない。戦争に負けなければ、野球でも、ストライクではなくて「よし1本」のコール。JAZZを聴くことは自粛の対象に…

そうはならないわけです。

勇気も創意も必要になる。そこが最も難しいところ。だから、できなくて「フツウ」です。高度成長期の学校教育は、僕らを複写機に育てようとした。つまり、そうしたことが「フツウ」だから、多くの人を巻き込んで山体崩壊のように沈む所以でもある。

時代は非情。泳力がないやつを置いていく濁流です。
しかも、その濁流を体感することはできない。少ない材料から推測するしかない。これも、多くの人を巻き込んで山体崩落のように沈む所以です。