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パンとバラ初日劇評 退屈を「飾って」共に生きる

以下は、12月21日、演劇ユニット・趣向の公演『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』初日の上演を拝見した劇評です。この作品には、過去に暴力をふるわれた人、現在精神障がいを持つ人が多数登場します。もしも読んでいて体調が悪くなるなどありましたら、どうかご無理なさいませんよう、お願い申し上げます。また、内容に言及する箇所もございます。事前に知りたくないという方は、ぜひご観劇後にご覧くださいませ。 (浅見絵梨子)

あらすじ

コロナ禍の合間をぬって、その読書会は行われている。
本を読むことに慣れているわけではないけれど、人生が退屈すぎて、退屈はほとんど恐怖で、わたしたちはここに来る。
カッターを人に預ける。クレジットカードも人に預ける。
『人形の家』を読んでおしゃべりをして、
『サロメ』を読んでおしゃべりをする。
そしてわたしたちは初めて「演劇」をはじめる。

目がいくつあっても足りない

忘れもしない12月3日、稽古見学の初日。
ベータ(前原麻希)を中心に歌い踊る華やかなシーンを終えた俳優の皆さんが、一様にきょとんとしている。
視線が集まる先、オノマさんと演出の扇田さんが、体をくの字に曲げて笑っていた。

「昌子さんが……」

話を聞くと、「集合して写真を取る」アクションの際にイプシロン(伊藤昌子)だけがワンテンポ遅れてしまい、渾身のキメ顔でカメラマン役のガンマ(榊原美鳳)を振り向いたときには周りはすでに次のシーンへの移動をはじめていた、という悲しいアクシデントが発生していたということだった。
伊藤さんの悲しみは想像するにあまりあるが、まんまと見逃したわたしのそれも、かなり大きかったと言わざるを得ない。

ああ、複眼がほしい。

と心から思った三週間ほど前の記憶が、劇場からの帰り道、あざやかによみがえる。
それほどに、作りこまれていた。

ベータ(前原麻希さん)の歌唱シーン

とくに印象に残ったのは、登場人物それぞれの「不器用さ」の表出の違いだ。初対面にもかかわらず、ぐいぐいと距離を詰めようとするゼータ(海老根理)に前にしたガンマ。明らかにまばたきが増えている。それを見て、ようやく気づけた。

アルファ(三澤さき)はいつも笑っていて声も大きく、一見、他者に遠慮のない性格に思える。
けれど目を凝らすと、がさつとも評されそうなその態度でもって、不用意に他者に踏み込まれないよう厳重に壁をつくっている、ことがわかる。
真面目で正義感の強いオメガ(大川翔子)は、生活の随所で生まれる怒りを溜めて、溜めて、溜めて、溜めて、溜められる限界を超えた瞬間に自傷や他者を怒鳴りつけることでそれを発散する。
デルタ(KAKAZU)は、ときに涙をこぼしながらも他者にNOを言える人物で、比較的困難との付き合い方を体得しているように思えるが、その身体は常に強張っている。

それぞれが生き延びてきたこれまでについて、はっきり語られることも想像にまかされるものもあるのだけれど、
言葉で語られるその前に、2時間のあいだ舞台上に存在しつづける生身の身体が、何よりも雄弁に、彼らのことを語ってくれる。

神は細部に宿ると言う。
たった一度の観劇ではとうてい気づけないほどの膨大な積み重ねによって紡がれ、成立している作品だということを、しみじみと感じた。
……ほんとうに、一度では咀嚼しきれないのでリピーター割引を導入したら好評を得るのではないか、とも思った……

優しい魔法

当日パンフレットに挟まれていた注釈(劇中に登場するいくつかの用語などを解説したもの)が、作品を理解するうえで大きな手助けになったのだけれど、その中のひとつ「時間を巻き戻す」の項に、以下のようにある。

読書会のメンバーは「再演」が得意である。過去にあったトラブルと似た状況を作り出してしまう。しかしそれが「再演」ならば、より状況が良くなることがあってもいいではないかと作者が考えたことにより、このファンタジックな展開が生まれている。

『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』当日パンフレット注釈

(細かなことですが、「いいのではないか」ではなく「いいではないか」であるところにオノマさんらしさを感じます)

これはオノマさんが書いた戯曲である、という前提を知ったうえで鑑賞している身ゆえ、後半、唐突とも思えるタイミングで時間が逆流する展開を迎えることについて何の疑問も抱いていなかったのだが、上記を読み、なるほどと膝を打った。

稽古場に伺う前、参考にと読んでいた『その後の不自由――「嵐」のあとを生きる人たち』(上岡陽江+大嶋栄子)という書籍がある。

本書は、暴力をはじめとする理不尽な体験そのものを生き延びたその後、今度は生きつづけるためにさまざまな不自由をかかえる人たちの現実を描いている。

※原文では「その後」に傍点が付いている

『その後の不自由――「嵐」のあとを生きる人たち』

「注釈」で書かれていたことそのものである「似たトラブルに何度も巻き込まれてしまう」例についてももちろん、同書の中で触れられているのだが、わたしが「再演」という言葉で想起したのはむしろ、フラッシュバックという現象を体験するひとのこころもちについて書かれた箇所だった。

なにより本人は生々しく”そのとき”をふたたび体験してしまうものですから、自分でその状態から抜け出して"いま、ここ”へ戻ってくるのも、実は簡単ではないのです。

同上

「過去と似た状況を作り出してしまう」のは、それだけそのひとの精神に「過去」が与える影響が強いということであり、
自力でそこから抜け出すのは、容易いことであるはずがない。

現実に生きるそのひとは、もしかしたら似た状況を繰り返すことで(けっして正しくはないかもしれないけれど)「既知の状況」に安心を得、
それをケアする現場の方は、ときにみずからの心からも血を流しながら、少しでもそのひとが光の方へ歩を進められるよう奮闘し、

『パンとバラ~』では、一縷の望みを託して物理法則をねじ曲げる。

そこに共通してひそむのは「どうか、なんとか生き延びて」というメッセージであり、
あらゆる位相で今この瞬間も展開されているであろう、それぞれの闘いに自然と意識が向いていく。
たぶんそれは、観客の意識的なレベルでも無意識のレベルでも同時に起きることであって、
戯曲の力はもちろん、今ここで演劇作品として上演されることに大きな意味があって、

あまりこういうふうに捉える方は多くないだろうけれど、どこか魔術じみた作品として結実したなあ、という感想を抱いた。
まるでそれは、少しだけ他者よりも不器用でこころ優しいひとたちに贈る、善き意図で織り上げられた白魔術のようだ、と。

自分の仕事をする

『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』は、オノマさんの戯曲の中で最も知名度が高いのではないかと思っていて、実際に何度もたくさんの方の手によって上演されつづけている。
その初演(2011年)の、たしか当日パンフレットにも載った文章で(いま検索しても出てこず……)、
母校の、歴史的価値があり何より学生や教員をはじめとする多くのひとに愛された建築物群の解体に反対する運動が展開された際、その建物がいかに大切な存在であるかを論文にしたという同窓生に触れ、

そのような声の上げかた、彼女なりの闘いかたを美しいと感じ、自分は自分の仕事をしたいと思った

というような内容を綴った箇所が、記憶に残っている。

『パンとバラ~』の再演準備について話をしていた今年の初夏、なぜこの戯曲を書いたのか、というあたりに話題が及んだことがあった。
オノマさんが高校演劇に携わる中で、自然と若いひとたちの生活にまつわる困難の、支援に関わるようになったことはなんとなく知っていた。
わたしの友人には、演劇制作者からキャリアを出発させ、いろいろな経験を経て現在、介護施設で働きながらその分野での資格を取るために勉強をしているひとがいたりするので、オノマさんはそういう方向に行くことはないのだなと、それまではすこし不思議に思っていたのだが、
そんなわたしに、彼女はさらりと言った。

(ケアや支援を経験することで)感じたいろいろなことを、誰かに聞いてほしい。
でも、なんだか、こう(戯曲に)するほうが伝わる気がして。

もしも今、11年前の、舞い散る桜に目を向ける暇もなく(本番は5月でした)、連日大荷物で神奈川県から東京の稽古場まで、ふうふう言いながら移動を重ねているオノマさんに会うことができたら、

未来のあなたも変わらずに、ちゃんと自分の仕事をしているよ

と伝えたいなと、思う。

「退屈」を、なかったことにしない

退屈がこわい 死ぬことを考えたり
子どもの頃のことが 頭に浮かんだり

『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』劇中歌
「生きていきましょう」

ゼータ  でももう一緒だからな。俺の人生に起こったことは、俺と一体化してるから
アルファ そうだね。それなしの人生は考えられない

同 上演台本

たとえばうつ病や、あるいは依存症の治療において、「完治」ということばが使われることはないと聞く。
あるのは「回復」であり「寛解」、つまり目指すべきは病から切り離されたクリーンな自分を手に入れることではなく、病を手なずけることなのだと、される。
それは今この瞬間、苦しみのただ中にいるひとにはあまりに受け入れがたい事実かもしれない。
それでもそれこそが希望なのだと、たぶん、一瞬でも苦しみの水面から顔を出すことができたひとは、知っている。

病んでいる自分は、消し去るべき存在ではない。
病むことで懸命に生きようとしている、いとしく尊い存在だ。
病は、敵ではない。
あなたが死んでしまわないように、懸命に時間を稼いでくれているのだ。

作品タイトルである『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』。
「飾って」は「忘れて」ではあり得ないし、
「明日も」は「今日を」ではあり得ないのではないかな、と思う。

耐えがたい退屈さえも手ばなさない優しさを持ちながら、明日も明後日も生きていくのは、誰にでもできることではない。
今日を生き延びるだけで大変なことは百も承知で、
どうか、それを諦めないでほしい。
そんな切なる願いを、タイトルからは感じる。
それが向けられているのは、匿名に守られた登場人物たちであり、
この戯曲に胸を打たれざるを得ない、すべてのひとなのだと思う。

来年も、生きていきましょう。

オメガ役:大川翔子さん

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