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アオイヤマダの表現 あなたがあなたにであう 生命の祝祭

夜中の2時、流れてきた音響機器のCM。群像となって踊る映像、確かに良く揃ってはいる。しかし、弱い。音楽も然り。
音楽の強度とは、ダンスの強度とは、哲学的な問いのようだが、受ける感覚として弱い、というのは印象に残らないということだ。
音楽で言えば、構造が弱い。メロディ、リズム、ハーモニー、そのどれもが強さがない。
アオイヤマダの表現は強くてしなやかで、軽やかだ。蝶がひらひらと舞うような、放たれた自由、瞬間瞬間の生命の煌めきと美しさがそこにある。

明確な意思を持ち、自分が自分として表現するエネルギーがあるから、強いのだと。逆に弱い音楽、衣装はアオイヤマダに呑み込まれてしまうかもしれない。アオイヤマダはカサブランカダンディ、ジュリーの音楽を勝手にしやがれと華麗に乗りこなすのだから。

アオイヤマダというアーティスト、表現者はカテゴライズすることが難しい。ダンサー、モデル、ミュージシャンでもあり、エディターでもある。チェキを操る写真家であって、食に関する鋭い感性も持ち、昭和歌謡を令和に伝える伝道師とも言える。
つまり、アオイヤマダはアオイヤマダであって、何かの枠にいれることが窮屈に感じる才能だ。

2021年、時代は令和になった。皇族が自らの生き方を求めて、新しい世界に飛び出す時代。決して年齢だけではないが、現在10代、20代の破格の才能が満ち溢れている。
その中でも、アオイヤマダは屈指の才能であり、新しい世代の表現者である。

芸術は大きく分けて、美術などの空間芸術、音楽などの時間芸術、空間と時間を合わせた映画や舞台などの総合芸術の3つがあり、アオイヤマダはそのすべてである。
見え方として、空間を強く感じるか、表現に時間を感じるか、それらが融合された世界を感じるか、それは視る側の感性によるものだ。

アオイヤマダはあなたの感性に向き合う。
アオイヤマダはあなたの感性への問いだ。


わかるという人も、共感も多いだろう。
しかし、わからない人も、忌み嫌う人もいるかもしれない。表現とは本来両方のベクトルを発生させるものだが、アオイヤマダの表現は、誰かの攻撃ではない。強烈な刺激でもない。

出会ったあなたへの愛。こころをやわらかくし、自己との対話をうながす、きっかけとなる。究極はこの世界そのものではないかと思ってしまう。生命の祝祭。こころの解放。

キャロルキングのナチュラルウーマン。
タイトルだけみると、ありのままの女性になるが、あなたの存在が、ありのままの私にしてくれる、そんな愛の歌。
ジェンダーをこえて、ああ、そうかこの曲は女性、男性という二元的なものでなくて、いのちへの愛なんだなとアオイヤマダに出会うと、自分の中に今までと違う視野が広がってくる。ピアノで弾き語るキャロルキングも素晴らしく、ソウルフルなアレサフランクリンの名唱もこころが揺さぶられる。名曲が、アオイヤマダにすぅーっと近づいていく。

新しい時代、生命の祝祭、ありのままのあなたに出会えるアオイヤマダの表現。

アオイヤマダに出会うことは、あなたがあなたに出会うこと。

さあ、あなたも自分自身にであってみませんか?

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