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頭脳警察黎明期


1968~9年、渋谷駅南、いまは桜丘口地区の再開発に伴い取り壊しされてしまったヤマハ音楽振興会の通称、崖の上のヤマハと呼ばれた渋谷エピキュラス。のちに中島みゆきなどを中心に大量に所属アーティストのレコーディングされたスタジオ&ライブホールがあった。そこでは、リリーの歌手生活何周年かにステージに呼び出され、「わたしは泣いています」をデュエットした思い出もある。
だが今日の話はそのエピキュラスの話ではなく、その崖の下にあった小さな小さな劇場。「ヘアー」から始まる寺山修司と袂を分かった東由多加が作った東京キッドブラザース(当時まだキッド兄弟商会だったかもしれない)の常設小屋だ。何かの芝居の幕の裏でクリエーションの竹田和夫とギターをガチャガチャ遊び、帰り際になってロシア風の毛皮の帽子を被った男に話しかけられたのが、横川純二との出会いであった。後に頭脳警察初代マネージャーとなる横川は、世界的カメラマン、サム・ハスキンスの助手として同行していたアフリカ撮影から戻ったばかりだという。膨大な量のチャップリンのフィルムを所有し、これをどこかで上映したいのだがという話だったかなと記憶している。のちに霞町(西麻布)に事務所を構え、いついかなるときもスリーピースのスーツにネクタイ、業界からも一目置かれ慕われた横川と、共に頭脳警察として活動するようになるとは、このときまだ夢にも思ってはいなかった。
その横川は、京都では知らぬもののいない山科にある一燈園出身。西田天香さんの始めた一燈園の理事となる山田隆也氏(本名横川)の子息であり、のちに頭脳警察が関西へ出向く折、その一燈園が基地となって活躍の場を広げられたのは、いまもって感謝の言葉もないところだ。
そして1970年を迎え、頭脳警察として初デビューライヴとなる神田共立講堂<第三世界のヘッドロック>に出演することとなる4月1日を前に、強化合宿練習をすることになった。
横川の伝手で秩父のヤクルト営業所が快諾してくれ、レンタカーに楽器アンプを積み込み、秩父まで運んだ。レンタカーを返しに行き電車で秩父に戻るとき、車内で耐えられない歯の激痛に涙をこぼしながら耐えていると、脇で返却に付き合ってくれていたトシが背中を擦ってくれている。そんな瞬間がいまも強く記憶に焼き付いているのはそれだけ痛かった歯の痛みだったのか、それとも背中を上下するトシの左手だったのか。
なにはともあれ秩父ヤクルト営業所での一週間の合宿を終え、無事に神田共立講堂での初ライブに臨むことが出来たのだった。このときのメンバーは左右栄一(のちにファーラアウト)、粟野仁、そしてトシと自分の4人、一燈園と某ドーナッツチェーンなどとの関係は有名だが、のちに日ハムの応援歌を書くことになる自分が、頭脳警察のデビューに際し、後ろでヤクルトのバックアップを受けていたとはお釈迦様でも知りますめえ~。

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