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傲慢な絶望|中村文則『カード師』

僕は孤児ではないし、飢えたこともない。無神論でも生きてこれたし、戦地に行って狂ったこともない。性の悩みも褒められたものでなく不安ではあるけど、治療は必要としていない。大学も卒業し、こうやって小説を買って読む余裕があり、感想文まで書こうとしている。要するに総合的に恵まれていて、中村さんの小説に出てくる人物のことを簡単に理解した風に語っていい境遇にはない。小学生の頃からチック症が酷く、そのためチックの描写があると少し嬉しくなるというか、つまりそれほど離れた存在なのだ。

それなのに、彼ら/彼女らが自分のことに思えてならない。自分の感受性が鋭いわけではない。感情移入という言葉でもない気がする。とにかく中村さんが執拗なまでに内面に迫るからそう思うのだ。

映画に感じる人物との距離はそのままその人物と社会との距離とも言え、そのおかげで彼ら/彼女らが抱く疎外感に気づくこともあるのだが、中村さんの小説は初めから自分のことなのだ。中村さんも太宰治の小説を読み「これは自分だ!」と思っていたらしいが、恐らく多くの読者が中村さんの小説に同じ感覚を抱いている。

『カード師』でもそうだった。違法賭博や何かの組織など、自分の生活からは遠いところに設定されていた。しかし登場する人物達は、自分で選択することが苦痛だったり、占いを信じていないのに蔑ろにできなかったり、性癖に困惑したりしている。

僕も占いは基本的に信じていない。誕生日占いだと365人に1人が、血液型占いなんて4人に1人が自分と同じ運命を辿ることになる。さすがに雑過ぎる。漢字の名前でしか占えない姓名判断は胡散臭く、どこか差別的でもある。星座もおみくじも数が限定的過ぎる。

主人公も占いの成り立ちを調べる中で、宗教の起源と同じく根拠のないものだと全身で感じてしまう瞬間があった。

でも、僕は天下取りの相と呼ばれるますかけ線が両手にあり、手相占いだけは、いや、僕は生命線がとても短いから、その一本で繋がる線の持つ意味だけ本当であって欲しいと思っている。要は、自分は特別な存在だから、今はこんな風だけど、ブエル(主人公が見る悪魔)の言う通り、警報も鳴っているけど大丈夫だと信じたいのだ。

神話や宗教など、人間の科学的でないものを信じることができる想像力は、集団で協力するには必要な能力だと言われているし、占いで何かを決める心理は僕もわかる。しかし最近の社会が投げつけてくる選択肢の数はあまりに少なく、理由も必要とされない短絡的な答えを求められているように思う。どれも当て嵌らないし、「強いて言えば」で答えたくないし、その選択肢を用意した理由も知りたいし、そもそもなぜ答えなければならないのですかと聞きたい。確かに自分で選択するのは大変だけど、誰かに選択を委ねることの危険性をコロナ禍で目の当たりにした。


占いを信じない主人公は占い師としてタロットを使う時、そのカードが持つ幾つかの意味の中から、時にそれ以上の解釈を、相手が上手くいくために選んでいくことになる。これは山倉(児童養護施設の職員)が子供だった主人公に見せた占いそのものであり、主人公も山倉に対し同じ行動を取っている。占いとはそういうものであると当時から薄々気づいていたのかもしれない。

山倉がトランプのジョーカーは〈自由〉だと語るところで、僕は自分が昔愛用していたトランプを思い出した。山倉のトランプと同じくジョーカーはピエロだったが、赤と黄のピエロに加えもう1枚、色のついていない白黒のピエロが入っていた。ジョーカーは基本的に1枚でいいので、僕は必ず色のついた方のジョーカーを使った。同じ役割なのに、佐藤(占い狂の投資家)の友人Iが言うように「別の構造の脳で見たら、その姿を一変させる」かもしれないのに、僕は色がついていないというだけの理由でそれを脇にやった。

当時はただ予備だと思っていたのだが、読んでいて、その使われなかったジョーカーが、悲惨な生い立ちでそれでも自己責任という言葉で片付けられる人達を思わせた。考え過ぎかもしれないが、もしそれが肌の色なら、と不安になった。もしかしたら差別の意識が。少なくともあのジョーカーは自由でなかった。

そのように属性が理由で自由を与えられなかった人達や、震災やコロナといったあまりにも暴力的な現実を前に自由を失った人達が今、オリンピック開催という「賭け」に巻き込まれている。強制的に命が賭けられている。クラブ“R”のポーカー。

何も変化させることができないのに「アンダーコントロール」と叫び招致した前首相。ひたすらに「安心安全」を繰り返す現首相。「神は私と東京五輪にどれほどの試練を与えるのか」と嘆きながら女性蔑視発言で辞めるまで神に祈り続けた元会長。専門家の提言を受け流し観客を入れることにしながら「オリンピックに反対する人の中には、あまり医学的、科学的でない議論もあるように感じます」と発言した、選手に首相とのハグを強要してしまうような現会長。フォールドは絶対しないIOC。税金でレイズし続け、子供達まで利用するオールイン状態のJOC。

凄い。凄まじい壊れ方だ。そのうち誰かが生贄とか言い出す流れではないか。組織レベルでのギャンブル。期間中、コロナが大人しくしている確率はフォーカードが成立する確率より低いのではないか。仮に勝ったとして、僕達が得られるものは何だろう。オリンピックだけではない。もう少しまともな政治を。


「世界は一枚のカードなの」
英子(弁護士)の言葉。もしかしたらもう既にカードはめくられていて、その結果を見せられているのではないか。これまで幾度となくめくられてきて、その都度表裏の姿を変えながら人々に価値観を問い続けてきたのではないか。もしそうであるなら、回数は決まっているのか。あと何回残っているのか。もし再び引っ繰り返すことができれば、その時には何かがいい方向へ変わっているのだろうか。それともやはり姿を変えないから歴史は繰り返すのか。


物語の最後、ページをめくると思わぬ再会があった。マジック。彼女が施設長なら、そこにいる少女は大丈夫と思えるような。山倉の、何かを変化させる手品。これも公正世界仮説なのか。でも、彼女は多様性を愛するとても優しい人だから、それは間違いなく少女にとって幸運だから。


脳内のニューロンが発火し何十億もの電気信号が生じるだとか、それは自分の欲望や意図を自覚する数ミリ秒前には既に起こっていてだから人間はアルゴリズムで自由意志は存在しないだとか、いやそもそも宇宙は超ひも理論によるとブレーンがどうだとか、もう正直意味がわからないけど、Iの言う通り、わからないから絶望できないし、裏を返せば完全に絶望するというのは傲慢なことかもしれない。

たとえ世界の本質が無意味なものであったとしても、本の優しさを僕は全身で感じているから、だからそれで十分だと、そんな風に中村さんの小説に救われてきました。小説も力です。中村さんのおかげで大江健三郎さんの作品にも出会えました。そのため部屋の本棚には十分過ぎるほど優しさが並んでいます。でもまだ少しだけスペースがあります。そして、今の社会はその隙間にヘイト本が入り込んだ状態です。本来は自由であるべきジョーカー達、つまり多様性のためのスペースなのに。

ですから、休みながらでいいので、本当にゆっくりでいいので、書き続けてその隙間を埋めてください。埋まっても、中村さんの本にならジョーカーは入っていけるから。


本当に救われています。

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