冬来たりなば遠からじ

☆自作クトゥルフ神話TRPG内のPL:櫻井雪の個別導入シナリオです。

寒風が吹きこみ冬も深まり植物も動物もみな身を縮めて耐え忍ぶように春を待つ季節。
櫻井雪もまた厳しく長い冬を耐え、そう遠くないであろう春を待つ身であった。

定期で行っているライブハウスのスタジオを借りてのバンド内セッションを終え、帰路につく雪は突き刺すような冬の寒さが先ほどまで弦を弾いていた細長く繊細な女性のような指先から急速に熱を奪っていくのを感じた。

無情にも手袋をやすやすとすり抜け指先を責め立てる空風に手をポケットに仕舞い込むこともできずに無抵抗でいなければならないのは両腕にずっしりと重いファンレターの詰め込まれた左右ふたつの紙袋を持っているからだ。

行きは背中に背負ったギターケースに手ぶらの軽装で家を出たのに帰りにはライブハウスで受け取ってもらっていたファンレターですっかり大荷物になってしまっていた。
いつからかこれほどの量の手紙が寄せられるほどに名が売れてきたのはうれしい反面生来の性質でそれほど活発ではなくむしろ無気力で労をきらう雪は同じくらい面倒も感じていた。

高校で所属していた軽音部に引き続き、大学に入ってから友人の誘いで始めたバンドは紆余曲折を経ながらも卒業を迎える頃にはそれなりに名の知れたバンドにまで成長し未だ苦労は多いものの、街中でアーティストの広告を目にしたり店内放送の音楽を聴いているといずれは自分たちも……と淡い期待を抱いてしまう程度にはファンを獲得しライブのチケットノルマに懐を痛めていた日々がはるか遠い昔のようにすら思える。
いまだ生活に余裕は持てずバイトを続けてはいるが、そのうちには面倒極まりないコンビニバイトともおさらばできる日は遠くないかもと夢想するとひとりでに表情が緩む。

しかしながら、そんな素敵な夢から現実に引き戻すのは今まさに腕を引き千切らんとしているたしかな紙束の重み……。これがファンの重みといえば聞こえはいいが届く声援が必ずしも喜ばしいものばかりではなく中には面倒の種でさえあり迷惑な想いに頭を悩ませるのは人気者の宿命かもしれない。

生まれ持った中性的で均整のとれた麗しい顔立ちが引き寄せるのは良いものばかりではなく、ときに危険さえ惹きつける。
雪はメンバーの中でも群を抜いてファンからの贈り物が多いがその中にはいろいろな魑魅魍魎が息を潜めている。
如何にも素人細工の形の悪いお菓子や食べ物に異常なまでに熱量のこもった手紙、正直ドン引きな明らかにとんでもなく高価な宝飾品はまだかわいいもので、近くで嗅ぐと生臭いおそらくファンの想い(比喩表現)の込められた菓子やよく見ると細工の痕跡のあるやけに重みのあるぬいぐるみや日用品、何を期待してかわかりたくない女ものの衣類(中には使用感溢れるものや何かわからないがナニかに使用した痕跡のあるものも)など枚挙にいとまがなく、さらに困るのはその送り主には男女の境がなく両性から熱烈なアプローチを受けていることだ。
そんな事情もあって手紙(刃物などの混入を防ぐため外装や封筒、包みのあるものは禁止で紙ペラのみを可とする)以外は受け取らないものとしている。

それでもなお定期的に紙袋に詰め込んで持ち帰らねばならないほど手紙が殺到するのだからとてもではないがうれしいだけでいられるものではない。
千里にも思える道のりをやっと乗り越えて帰宅するとそのままリビングにドサッと紙袋を置いて少々乱暴だが床にザラザラとひっくり返す。
瞬く間に紙束は小さな山を作り、それを見るとわかってはいたことだがこれを読むのかとため息が漏れる。

生まれつきの面倒をきらう消極的な性格が顔を覗かせ後回しでいいかとドカッと座りギターを手に取って構えたところで、手紙の山の一角に目が留まる。

そこには光さえ飲み込んでしまいそうな真っ黒な手紙が一通。
他の手紙は色さえ様々だが便せんが裸で積み重なっているのに、明らかに異彩を放つその手紙は紙の質からしてまるで物が違い豪華な装飾がほどこされている。強烈な存在感を放つその手紙に冷や汗がたらりと一筋頬をなで、心は触れてはいけないと警鐘を鳴らす。

しかし、なぜか体は勝手に封筒へと腕を伸ばす。

まるで何者かに誘われ招待されているかのように。


冬来たりなば春遠からじ。
厳しい冬が来たならば、そのすぐ先には暖かな春が待つ。
つらき日々を乗り越えた先には必ず幸福な未来が待っている、と英国の詩人はそう綴った。
雪にとっての春の訪れもそう遠くはないだろう。冬はやがて明ける。

ただし、そこには見落としてはならないことがある。

冬来たりなば春遠からじ。

その身に迫る恐ろしい冬を乗り越えられなければ、春は訪れない。

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