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半オリジナルSS:「互恵関係」

田舎で暮らすということは、身分証明書を常に見えるところに掲げておくように暮らすということ。


たとえば田舎のスーパーやコンビニによくある、平気で100台や200台停められる広々とした駐車場。
そういう店があるのは決まって田んぼのど真ん中。
日の出ている時間ですらそれほど混んでいるのを見たことがないのに律儀に夜中も営業してるあのローソンも、コメと乾燥ワカメと緑茶の茶葉が置いてある棚のど真ん中で地域の婆ちゃんがいっつも立ち話してるヤマザワも
どんな店にもある、あの広大な平原。もとい駐車場。
だからいつ行っても駐車場所には困らなくて楽だな、なんてことはなく、これはこれで悩ましい問題があったりする。

休みの日に買い物に行く、すると休日なのでそれなりに車もいるから、混みあう場所を避けて出入口から比較的遠い場所にポツンと停めて買い物したと想定してほしい。
次の日、会社に出勤したら必ず誰かしらに言われるだろう、

「健太郎君、あそこのヤマザワで昨日買い物してたでしょ!?」

の一言。

なぜ僕だって分かるのか。
それは田舎の人間がご近所さんや会社の同僚が乗ってる車のナンバーを記憶してるからで、迂闊に目立つ場所に駐車すると、たとえ乗っているのがありふれた大衆車だとしてもナンバーからすぐにばれてしまう。
僕ら田舎住まいにとって車は生活の足以上の存在で、車種とナンバーの二つさえ分かっていれば、それを使って見知った人間を無意識に発見出来てしまうくらいに重要な身分証明書代わりなのだ。

そう思うと、田舎の人間には本当にプライバシーがない。
休日に出歩くと必ずと言っていいほど知人と出くわすし、話しかけられる。

こういうことを気にならない人は多いと思う。
むしろ話題の一つにもなるならいいだろう、と考える人もいる。

でも、僕は耐えられない。
職場や地域の寄り合いやご近所づきあい。
そのたびに
「〇〇株式会社の営業担当の健太郎」
「〇〇地区の隣組役員の健太郎」
「中田の幸三さん家の息子の健太郎」
などの肩書とそれに連動する人格を使い分け、その人格をオフにして会話することが許されない圧迫感。
実家にいても会社にいても喫茶店にいても買い物をしてても、いきなり誰かが寄ってきて僕に役職名付きのネームプレートをべたと張り付け、そして意気揚々と話してくる。
今日は「幸三の息子の健太郎」も「隣組役員の健太郎」も「営業職の健太郎」も全部お休みなのに、なんで肩書を付け直して会話しないといけないんだろうか。
肩書を外して心から休める、僕の休日はどこにあるのだろうか?


こういう人たちと休日に出会ってしまうと、「健太郎君は来年の消防団、入ってくれっが?」や「町会費の徴収のことなんだげんど」や「健太郎君とこの商品で分がんねぇとこがあんだけど」などと、こっちの希望もお構いなしで私生活を侵食してくる。それが地方に住む人間の距離の詰め方だし、距離を詰めれば詰めるほど望ましいとさえ思われてる。
僕はそういった適切な距離感を守れない人と会うのが嫌で嫌で仕方ないので、結果休日はできる限り人に見つからないように行動する。
日用品の買い物は家の最寄ではなく、あえて車で20分ほどの遠くのスーパーに行くし、食事も隣町まで出かけて取ることが多い。
人に会いたくないから、見知った人がいる生活圏からはできる限り離れるのだ。
出会ってしまったが最後、せっかくの休日の時間を他人に捧げることになってしまう。それだけは避けたい。


そして日曜日。
今日もやっぱり人に会いたくない僕は、あえて家から車で1時間のラーメン屋に食事をしに行くことにした。
12時20分に店に着くと、意外に狭い駐車場は車でいっぱいだった。
地方のラーメン屋というのは何故か駐車場が狭い店が多い。土地は有り余っているはずなのに何故か駐車場がなく路駐のみの店すらあるのが謎だ。
車を停めて降りるついでに周りを見渡すと、町内会会長の後藤康秀さんの車があった。
他人ばかり見て回る人をあれほど嫌悪してる自分が気づくと同じことをやっている。これも田舎育ち特有の無意識の行動か。
まあいたとしても席は離れているし、声をかけられたとしてもそんなに長々と話すこともないだろう、と思って店に入る。

見るとテーブルも座敷もいっぱいだけど、奥のテーブルが空きそうだし、すこし待つか……
なんて思ってた。

「おぉ!!健太郎!!!ここ空いてっからこさ座れ!!」
「あれ、味噌チャーシュー追加してけろっ」

いつものよく通る野太い声。
後藤さんとその連れ二人が座っていたのは4人掛けテーブルだった。
そうやって呼び止められた以上、座るしかない。

「健太郎!!親父は今日も土弄りしてっか!?」
「健太郎って幸三のとこの子がっ!」
「健太郎!俺、お前の親父とこの会社どよく仕事したんだぞ?」

矢継ぎ早に話し出す3人。

「健太郎、家出て最近戻ってきたんだべ?どごに行ってだんだ?」

何故かほとんど面識がないのに僕の家のこともよく知っている。気持ち悪い。

「あぁ、東京の大学に進学してまして……」

「東京!!!東大が!!?」

「あぁ……はは……」
そんなわけないだろ


このやり取りも数えきれないほどやった。もうその都度訂正するのも疲れたから流すようにしている。

「帰ってくるって聞いだがら嫁もしぇで(連れて)くるのがどおもっだら一人で帰ってくんだも。大学で女引っかけで遊ばながったのが?」

「ダメなんだ、親父ど一緒で遊び方分からねぇんだも。健太郎、俺の娘の友達で良いのいるがら紹介すっぞ!?」


こちらの返事を黙殺するように話は進み、そうこうしているうちに気づいたら味噌チャーシュー麺が届いていた。頼んだ覚えがない。

「お前好きだべ?頼んどいたから」

葱味噌ラーメンを頼む権利も僕にはないらしかった。

結局味噌チャーシューを食べている間も家のことや私生活のことを色々と聞かれ、気づいたら来年の地区懇談会の役員をやってもらおうということに彼らのなかでは決まったらしい。
「いい!いい!俺が払っとくがら!!!」
と言って僕の味噌チャーシュー代を払われてしまったことで、僕に拒否権はなくなってしまった。

こういった日々の細かい『おごり・おごられ』の関係で地域の世代循環はかろうじて機能している。頼んでもいないのに野菜を「取れすぎたから」と持ってくることや、「会合で出たやつのあまりだから」とオードブルの残りをわざわざ僕の実家に持ってきたりするのも、ようは無意識の根回し行為なのだった。そうでもしないと古めかしい地域の寄り合いやら組織やらに若者は入ってこない。

田舎の人間はいつも他人を見ている。それは単に他人に関心があるからというわけではなく、常に近しい人を囲っておいていざというときに役立てようという打算によるところが多いんじゃないだろうか。
少なくとも味噌チャーシャー麺1杯で来年のめんどうな仕事を押し付けられてしまった僕にはそうとしか思えなかった。



今度ラーメンを食べるときは隣の県まで出かけようと、切に思った。







注:実際に経験した体験をもとに創作を交えて書いています

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