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かれこれ半年くらいお弁当を作っている。
夫がお昼に食べるやつ。

自分のお弁当もろくに作ったことがない。
というより私は仕事以外でご飯を作ることが、夫と生活するまでは皆無だった。

実家にいる時は母が作っていたし、1回目の結婚の時は配偶者が作っていた。

作りたくなかったわけではない。
料理に興味はあった方だと思う。
でも自分より興味があったり、上手だったりする人を差し置いてまで作りたくはなかったというだけの話だ。
そんなのプレッシャーすぎる。
母はダメ出しが大好きな人だし、前回の配偶者もそうだった。2人とも歯に衣着せるということを知らないので怖くて作りたくなかったのだ。大体、美味しいご飯が作れる人の前で自分の足りない経験値で作り出す料理に価値なんて見出せなかった。

で、今回。
夫は美味しいものは知ってるけど、別に自分でわざわざ作ろうとはしないタイプ。
作れないわけじゃないけど、面倒でやらないというところだろう。

しかも我々が出会ってすぐ、私はあるもののお礼で彼に手作りのパスタソースをあげている。
私としては日常的に作っているものをお裾分け程度の気持ちであげたんだけど、それを大変に「美味しい」と感じていてくれていた。
完全に美味しいご飯を作る人というレッテルができていた。

煽てられ褒められるのであれば、人間頑張ろうとも思うもの。
同居を始めてから毎日毎日ご飯とお弁当を作っている。

しょうこのご飯は美味しいと言われる度に、リップサービスでは?恋しちゃってるからでは?とあまり本気にしてこなかった。
だって私は全然ご飯を作ってこなかった人だし。

だが、こないだ。
職場の隣の老舗レストランさんからお弁当の残りを頂戴した。
天気も良かったので空腹なこともあり、帰りがけにベンチでお弁当を頬張った。
なんとなく寂しくなった。

自分で買おうとして選んだものでなかったから余計気になったのかもしれないけど、「愛」がないお弁当だった。

愛っていうのは、新婚の愛妻弁当に宿るものじゃない。どんな気持ちで、どういう姿勢で食材と向き合っているのか、ってことなんだと思う。

その企業様のお弁当は、原価率を気にしているようなそういうものだった。ロボットが作ったようなそういう見た目だった。

私はようやく「しょうこのめしはうまい」の意味がわかった。誰かの喜ぶ顔を想像して、その行為を行うことに肯定的な感情をもって、その先をイメージして作ってる。それは食材の声を聞いた先にあるものだ。
スーパーやお肉屋さん魚屋さんで、どれを買うか決める時でも心を開いてその先をイメージして決めている。安いだけでは買わないし、必要以上に楽も選択しない。

至極まじめに毎日のご飯に向き合っている。

毎日まじめに作りすぎているという声もいただく。
でもどうだろう。自分たちが被捕食者だった場合、自分の大切な存在が食べられる時に雑に扱われたとしたらさ、呪わないかな、この世を。この世はどうなってるんだって、愛はないのかって。そう思わないかな。

愛は相手を保護することじゃなくて、相手の存在を認めるってことなんだと思う。

そこにある命、存在。
それを十把一絡げに扱わないってこと。
レッテルを貼らないってこと。

そういうことなんじゃないかなあ。

故に今日も私は、ご飯のごま塩も大事に振るのだ。

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