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46 ことばを通して見る世界

どうしたの?行く宛を間違えているわよ、南風。ベランダの空気がまるで4月じゃないの。
春霞のような空に自分が向かっている先が見えなくなった朝でした。これから冬のはずなのに。

昨晩夫と言語について話をしてて、私の言語脳は日本で、彼はヨーロッパ諸国寄りなんだなと気づいた。
日本および私は、話し言葉重視というか、目よりも耳先行なんですね。ここでの文章も、目で追うと追いづらいです。でも脳内で音読してみてください。一定のリズムで、聴こえてくると思います。
実際、私は脳内に聞こえる自分の音声を文字起こししている感じなんです。

しょうこの文章は、気持ちがこもってるけど文章としては下手くそと周りに評価される所以はそこだと思ってます。
読むための文章ではなく、読んで聞かせるための文章なんですね。これは音遊びなんです。感覚で理解するためのツール。
昔、宮沢賢治の物語を読んだときに同じことを思いました。あとは古文全般に対して思います。
賢治の作品は方言が多用されているので、音読しないとゲシュタルト崩壊するんです。でも音にした瞬間に上質の音楽となって、漣のような、温泉のような心地よい時間をもたらしてくれます。
古文も同じです。単語の一個一個が理解できなくても耳で繰り返し追うことで情景が浮かぶという不思議があります。

夫は音楽的ではない言語の使い方をします。
彼はきっと欧州諸語を理解するのが容易いと思うので、ドイツ語辺りを勉強することを薦めておきました。多分前世はドイツ人なので、習得は早いはずです。

彼の凄いところは、頭で理解したものを感情までおろすことができるところで、一方私は感覚感情的に理解したことを脳内で言語処理するのが早い。
反対側に立って、同じ方向を見つめているので、相手を理解しようとすることが、自分自身の力では埋まらない自分の穴を埋めることになるのです。

以前は同じところに立って違う風景を見て、一向に埋まらない溝に苛立ち不安がるという人間関係を作っていたので、今のあり方はすごく心地がいい。

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