36.4℃

 この国はもうすぐ終わるのだという。国っていうか、セカイ? テレビのアナウンサーも大学病院のセンセイも国のえらい人もみんなみんな沈んだ顔をして「あなたにとっての大切な人とかけがえのない日々を過ごしましょう」とだけ繰り返す。
 じゃああなたたちだって今すぐテレビなんかやめて自分の家族だとか友達と過ごせばいいのにね。テレビを見るたびにそんなことを思うのだけれど今日もマジメ腐った顔をしたアナウンサーが目の下にクマを浮かべながら日本の終焉を嘆いている。
 トースターから軽快な音を立てて食パンが飛び出す。その上に賞味期限が一週間すぎたマヨネーズと茶色い端っこだけ切り取ったレタス、半額で買ったハムを乗せて口に含む。母が聞いたら健康に悪いだなんて眉を顰めそうなものだけど滅亡の前に賞味期限なんてものを気にしていたって意味がない。カロリーも然り。母も父もとうに連れて行かれてしまったのだ。わたしにはもう健康に気を使う理由も真摯に生きる理由もなかった。
 冷蔵庫の余り物トーストを食べ終えて体温計を脇に挟む。36・4度。うん、今日もまだ平熱。体温が37・5度を超えたものは隔離施設に送られるのだという。ワクチンも治療法もないのだから、せめて感染を防ぐために。検査も受けられないままに遠い遠い病院で孤独に終わりを待つのだ。
 先週、A県の病院で「おれはもう罹患している!!」と叫んだ男が逮捕されたそうだ。その男の行き先は誰も知らない。おそらく検査もせずに終局地へと送られたのだろう。彼の周りにいた人間もまた何も言えないまま巻き添えになったのだという噂を聞いた。
 “あの子”はいつもあたたかなてのひらをしてりんごみたいな頬をしていた。わたしはそれを子供体温だとよく揶揄ったものだけれどその手と手を繋ぐことが好きだった。わたしの低めの体温があの子のてのひらによってちょうどいい温度になることで「ちょうど良さ」を担保できるのが好きだった。
 あの子の体温計はいつだって36・8度だとか37・1度だとか微妙に高めな値ばかりを告げていたからそれがあの子の平熱なのだろう。
「さむい?」と聞いても笑って首を横に振るあの子にマフラーを巻いてあげるのがわたしの務めだった。
 あの日の朝のことはまるでついさっき起こったことのように鮮明に覚えている。少しだけ眠そうな顔をしたあの子の体温計は37・5度を示した。きっと眠いから。寝起きだから。部屋が暑いから。厚着をしているから。何度測り直したって0・1度が下がることはなくってあの子は不思議そうな顔でわたしを見た。
「だめかなあ」
「だめなんかじゃないよ。きっと、大丈夫だから」
 わたしの震える手のひらをあの子が握ってくれた。あたたかくて指先からわたしを安心させてくれるようなその手をどうして離さなくてはならないのだ。そう考えれば考えるほど手を離さなくてはいけない日が来ることが怖くなってしまって、手を握り返したことを後悔した。
 ああ、二人でこのままどこかに行ってしまおうか。大丈夫だよ、きっと。わたしたちはどこへだって手を繋いでいける。37・4度と37・5度、端から見ただけではわからないようにその境目があいまいなように、わたしたちを取り巻くこの世界だってきっともっとあいまいなもので、わたしたちふたりが居なくなったところで誰も困りやしないのだから。
 いつもよりも念入りにマフラーを巻いた。わたしのお気に入りのクリーム色の手袋もあたたかな手に嵌めてあげた。ばんそうこうとティッシュとおにぎりと、それから。あれも渡さなくてはと何度も家のなかに戻るわたしに係員は冷たい声で告げる。
「施設内には持ち込めない規則ですので」
 わかっている。そんなことはわかっているのだ。ふたりでココアを飲みながら編んだマフラーもわたしの誕生日にくれた手袋もよく似合っているえんじ色のセーターも全部全部燃やされて殺菌消毒を施された真っ白な衣服だけが渡される。どうせ何もしてくれないのなら最後はせめてその人にとってのしあわせに包まれていてほしいのに。
「おでかけ?」
 無邪気な声がわたしに問いかける。
「そうだよ。わたしもすぐに行くから待っていて」
 あの子は嬉しそうに真っ赤な頬を緩ませて頷いた。一緒に見ようと約束した庭の桜はまだ蕾のままだった。
 
 2021年2月19日。体温36・4度。あなたのもとへはまだ行けそうにない。

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