今日も新宿ではネズミが死んでいる

朝5時。新宿歌舞伎町一丁目。終電を逃した酔っ払い達ものろのろと起き上がる頃合い。眠い目を擦りながら鉄製のボロ階段を降りたところに一匹のネズミの死体が落ちていた。
うわ。サイアク。朝から気分の悪いものを見た。舌打ち一つを餞にネズミの死体を見るのをやめる。早朝の街にはわたしと同じようにどこか眠たげな表情をした人間がちらほらいたけれど誰もネズミの死体を見て大袈裟に驚いたり悲しんだり気持ち悪がったりはしなかった。ネズミの死なんてこの街では日常茶飯事なのである。雑居ビルの一角を借りた狭くてアルコールとタバコの臭いしかしないスナックからようやっと抜け出せたというのに外の空気も大して先ほどまでと変わらないと感じた。

ネズミの死体といえば、と昨日来た客のことを思い出してまた憂鬱な気持ちになった。ハゲてて太ってて汗臭くてそのくせ声が大きくて存在だけで客三人分くらいの料金を請求したいくらいなのに安い酒とミックスナッツしか頼まないハズレ客。さも聞いて欲しそうに話してくる話の内容も昔の本の話だとかはたまた自分がいかに教養があってすごい人間なのか、みたいな自慢話ばかりだから正直辟易して、途中からは適当に相槌を打ちながらおにぎりの具同士を戦わせたらなにが一番強いのかについて考えていた。
大本命はシャケ。なんて言ったってウエイトがある。もとが魚っていうのもいい。切身の状態で押し相撲をしても最強だし、元の魚の状態で戦ったら昆布なんかは戦う前から恐れをなして逃げ出すだろう。ああ、でも元の形で戦うならきっと鮭よりマグロの方が強い。そういう意味ではツナマヨネーズも優勝候補だ。まずはマヨネーズを相手のフィールドに噴射して足元を不安定にさせたところでマグロが相手に襲いかかる!そういった戦略も戦場では欠かせない要素だ。
戦略という意味では納豆もなかなか良い試合をするだろう。ネバネバの糸で相手を捕まえ流ことができるしなんてったって豆がいっぱいあるから、一つ一つは小さな豆でも大量に集まれば妥当鮭だって夢じゃない。問題は臭いが強くて好き嫌いが分かれるところ。わたしがおにぎりバトラーだったら納豆は戦力候補から真っ先に外す。だって臭いもん。
わたしの一押しは梅干しだ。梅干しなんか小さくって鮭に踏みつぶされたら一発K O
だって?ふふん!考えが甘いようだね。梅干しのポテンシャルと言えばなんと言っても強烈な酸味。ひとつの梅干しが捨て身で相手の身体に飛び込んで喉や胃に攻撃をし、相手が酸味で悶絶している間に他の梅干しが足元に転がったり大量に相手の口の中に飛び込むことで転倒死や窒息死を狙うことができる。小さいからって侮ることなかれ。
そんなことを考えていたらお腹が空いてきた。退勤したら絶対におにぎりを買うぞ、と決意を胸に秘める。何味がいいかな。梅はマストとして、今日は野沢菜が食べたい気分だ。おかかも悪くない。あとは新しい唐揚げのおにぎりや混ぜご飯も試してみたい。
「ネズミというものを侮ってはいけないんだよ」
ネズミ?ネズミなんかおにぎりに入れる気?センスがなさすぎる。絶対にやめた方がいい。正気を疑う発言が聞こえた方に顔を向ければハズレ客が自慢げにウンチクを垂れ流しているところだった。危ない危ない。おにぎりのことを考えている場合じゃなかった。ええと、何の話だっけ。
「侮ってはいけない、ってネズミをですか?」
ネズミなんかこの街にはいくらでもいる。なにをおかしなことを言っているのだ、と心の中で嘲笑しつつも適当に話を合わせてみれば客はふんと鼻息を荒くして話を続けた。
「ああ。君はカミュのペストという作品を読んだことがあるかい?」
「ええと、名前くらいなら」
本当は名前すら聞いたことがなかったけれど接客業は正直に全て話す仕事ではなく相手の領域に歩み寄るのが仕事だからひとまず同意してみる。わたしの返事に客は「これだから若い女は」という顔をした。これだから中年客は。若い女に振る話題として間違ってんだろ。タピオカとかチーズティーとか今流行りの漫画の話ならわかるけど。わたしの反応を気に介さず客はペラペラと話し続ける。
「『ペスト』はフランスの作家アルベール・カミュの小説でね、、フランスの植民地であるアルジェリアのオラン市をペストが襲い苦境の中で団結する民衆を描いた一作なんだよ。ドキュメンタリー風に描かれた創作小説だけど絶望に駆られた中で人々が苦境に立ち向かう姿をよく描いている」
「それとネズミに何の関係が?」
わたしの質問に男は「よくぞ聞いてくれました!」とばかりに手を叩いて喜んだ。あー、ほんと楽な仕事。相手が言われたいことをそのまま返すだけで喜ばれるんだから。
「この小説の冒頭は医師が階段でネズミに躓く所からはじまるんだ」
「はあ」
「最初は彼もなにも気に留めなかったんだけどね、徐々に街に謎の病気での死者が増えはじめて彼はそのネズミがペストだったことに気づくんだよ」
「……はあ」
「彼のその発見こそが街を救う第一歩となる!わけなんだけど今日僕もこの店に入るときにネズミに躓いてね」
ほら、と彼が鞄の中から取り出したのはジップロックに入れられたネズミだった。うわ、サイアク。一歩引いたわたしに気づかず得意げにネズミを見せびらかす。
「もしかしたらこのネズミも世紀の発見かもしれないってことさ。お姉さんも気をつけた方がいい。このネズミはペストに感染しているかもしれないからね!もっとも僕がこのネズミを調べて原因を解明するから君も安心してくれたまえ!」
この人の話をまともに聞いたところで無駄だ。そう認識を改めたわたしはまた話を適当に受け流しながら一番強いおにぎりの具を考える作業に戻った。カニはなかなか強いかもしれないな━━。

今日も新宿ではネズミが死んでいる。その原因は新種の流行病なんかじゃない。排水溝の汚い空気を吸い込んだか、車に轢かれたか、人間に踏まれたか、餓死か。珍しいことなんかなにもなくて淀んだこの街の汚さの象徴のような生き物だ。階段でネズミが死んでいたから流行病だなんて、そんなことを言い出したら新宿ではとっくの前から流行病が流行っているし、そんな新宿に通い続けるわたしはもうとっくに手遅れなのだろう。
こほこほ、と軽く咳をしてコンビニの扉を開く。真っ黒な指先をした店員がおにぎりを並べているところだった。同じように真っ黒に黒ずんだわたしの指先がおにぎりの海苔と同化しているように感じた。

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