原点から射程を逆算しつつ、これからの来歴の話をしよう

大学時代から俳句を書き続けてきたけど、自分の歩いている道や歩いてきた道は常に自分の歩くべき道だったのかと自問自答しながら現在まで至る。ずっと続けてきた走高跳の道中に走高跳と俳句との分岐点があり、その分岐を選ばない選択肢もあったはずだが、俳句という選択肢を選んで結局いままで続けてきた。気がつけば、たんば青春俳句賞や愛媛新聞青嵐大賞、鬼貫青春俳句大賞優秀賞などいくつかの賞に触れていた。


走高跳という高く跳べば勝ちというシンプルな競技から、17音という基準に言葉を嵌めていく答えのないマラソンへの跳躍は自分の人生史上いちばん意味不明なものだった。

1.学生時代


大学1回生の後期、月曜日、10時40分、「近代文学講読Ⅱ」の授業を受講していた。この授業は、正岡子規から阪神大震災までの俳句史を考えるといったもので、講師が提示した例句を鑑賞することが課された。その授業の学期の終わりに一学年上の先輩が俳句を教えて欲しいと懇願した。そうして開催されることが決まった句会に何故か僕も呼ばれた。その句会をうまく断れず参加することに。それがはじめての句会体験だった。

その句会体験がきっかけでいくつか俳句イベントの案内をもらうことに。そのひとつが生田神社で開催された俳句Gatheringだった。案内をもらって参加したが正直内容はよくわからなかった。連句をやったり、芸人とローカルアイドルが俳句対決をしたりと関西らしくバラエティに富んでいたことは覚えている。

そこに関西俳句会ふらここメンバーが来ていて、京都は伏見桃山で開催される吟行句会に呼んでもらった。

甲南大学でも、日本語日本文学科のメンバーを中心にサークル活動を始めた。名前は( )俳句会で、当初は郭公俳句会にしようと思っていたが、すでに郭公という結社があったためこの名前に決まった。何か賞を獲るたびに大学広報にも掲載していただいた。

2.雑誌とグループ

3ヶ月に1度俳句雑誌を作った。学校生協で紙を買い、大学自治会の輪転機で毎号200冊くらい刷った。正木和恵が編集長で、いろんなところから集めた原稿を整理してくれた。またデータもWEB上に挙げた。大学生の時期は、関西俳句会ふらここ、船団の会宝塚句会、大阪俳句史研究会、( )俳句会が活動の中心だった。

大学サークルを社会人に引きずらないということで、メンバーはほぼ変わらなかったが社会人サークルは鯱の会という名前にした。年に1度雑誌出す計画だったが、大学卒業後各地に散ったメンバーと活動を続けるのは難しく「NOREN」という部内誌を作って完結した。その後、月に1回のゲツイチ句会を中心に夜守派など小さな規模で活動を続けた。そしてその後に樹色というグループを作り、いまはそこをメインに活動している。

3.近況とこれから

長らく生まれ育った大阪を後に、昭和初期の天才俳人芝不器男のふるさと松野町で活動している。四万十川源流にあたるこの町が僕のフィールドで僕のアトリエだ。仕事は、地域おこし協力隊をしていて、そのまま芝不器男記念館の担当だ。愛媛に来てからは40歳以下を対象にした青嵐対象を受賞。FM愛媛で、森の国俳句ウォークという番組をさせていただいている。

4.これから

これからも松野町を拠点に俳句を続けていく。俳句を1000年続けても全知全能にはなれないし、人生100年もあるか分からないなかで、俳句という答えのない文芸を一生かけてマラソンするには、10年後のいきたい方向をなんとなく定めて1年ずつラップタイムを記録していくことが、重要だと感じている。いまいるこの場所で最大限できることを積み上げていくことが自分と自分の俳句の可能性を広げていくことになると信じている。


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