知的障害のホントの意思と「じりつ」について

人間は障害のあるなしに関係なく社会で生きていく。人により社会の形態が異なるだけで何らかの社会の中で生きていく。社会で生きていくためにはルールがあり、ルールに従うことでその社会の成員として保証される。すなわち、社会で生きていくためには好むと好まざるとに関わらず、その社会のルールを守らなければならないのである。

社会には様々な形態がある。ミクロでは家庭であり、マクロでは社会一般と言えよう。では、知的障害者にとっての社会とは何か?本来であればマクロの社会であるが、果たして現状はどうか?最小単位である家庭(もしくは入所施設、グループホーム)と日中に施設に通えていれば通所施設だけでは無いだろうか。

多くの障害者はこの「限られた社会」での生活を余儀なくされている。この「限られた社会」におけるルールはその範囲が限定的であるがため時には強制的で、本来なら能動的に行われなければならない選択が受動的にならざるを得ない環境を生む。その様な環境で長い間生きて来なければならなかった人達は、自らの意思を表出できなくなるのではないか。

故に、一見すると本人の意思と思われる事がその実、家族または支援者の思惑が大いに反映された意思であることが多い。本人の本意とは裏腹に家族、支援者という立場の価値観から、そう思っているに違いないからという理屈で決められた選択。家族や支援者がそう思っているなら従うかという諦めにも似た思いから選択した意思。これら「配慮された意思・選択」にどれ程の意義があるだろうか。

ふたつの「じりつ」

社会で生きていくためには、じりつする(できる)ことが必要であると考える。じりつとは自分の気持ちをコントロールし律する事ができる自律と、最小限のサポートを受けながらも、一人で立ち続ける自立を指す。

社会で生きていくためにはなぜこのふたつの「じりつ」が必要となるのか。

前述したが、人は社会で生きていかなければならない。そこにはルールが存在する。ルールの中には自分の意にそぐわないものも存在する。また、社会とは他者との共存の場でもある。他者は常に友好的とは限らない。これらの事柄は時として大きな負荷となり降り注ぐ、この負荷に対応するためにも自律できるスキルが必要となるのだ。

人は一人では生きて行けない必ず他者との何らかの関係性の中で支えられながら生きている。一人で立ち続けるとは一切の他者との関係を絶つ事ではない。他者に支えられながらも、自らの意思で選択しその結果に対して責任を持ち生きて行くことである。


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