「障害者入所施設における虐待メカニズムの考察2016記」

施設での職員による凄惨な事件はなぜ起こったのか?優生思想だけでは語れない何かがそこにはあった…

≪はじめに≫

障害者虐待防止法が施行されて一年余りが経とうとしている。この法律が施行された背景の一つには度重なる障害者に対する虐待の歴史がある。とりわけ、施設における虐待事案の報告がニュース等で大きく取り上げられている。中には、度重なる虐待により虐待を受けた者が死亡するという悲しい結末を迎えた事案もある。なぜ支援者は、障害者に対して虐待という選択肢を選んでしまうのか。虐待が起こるメカニズムを「行動分析学」と「環境要因」という二つの観点から考察する。


≪行動分析学の観点から≫

心理学者のB.Fスキナーが「行動分析学」を提唱して以降、精神障害者に対する支援や治療の手段として行動分析学は活用されて来た。また近年では、障害者支援においても行動分析学を基礎とした支援の取り組みが行われ、とりわけ「問題行動」と呼ばれる行動を有する行動障害者に対する支援において多くの成果を挙げている。そのためか、行動分析を基礎とした支援方法の学習会や、行動分析に関する講演や研修が多く行われている。そして支援者はこれらの学習会や研修などで学んだ知識や実践をそれぞれの施設へと持ち帰り行動分析を基にした支援を展開して行く。

行動分析学の理論は、決して利用者支援に対してのみその有効性を発揮するわけではない。すなわち、支援を展開していく支援者側の諸行動にも行動分析学の理論は当てはめる事ができるのであり、利用者も、支援者も「人間」という括りではどちらも行動分析学の範疇であることに変わりはない。

 行動分析学では「行動は環境との相互作用により生じ、行動の前後に焦点を当てることで、行動の変容が可能である」と考える。行動は環境との相互作用により生じるとするのであれば、「虐待」という行動も行う立場の者が置かれている環境に焦点をあてることで、そのメカニズムが明確になるのではないだろうか。さらに、行動の前後に焦点を当てる事で行動の変容も可能であるとするならば、虐待行動の前後に焦点を当て、行動分析の見地よりアプローチする事で虐待行動の抑制に効果を示すとも考えられる。ここでは虐待が行なわれるまでに至る経緯と虐待を防ぐための手がかりを行動分析学の観点から考察する。


ⅰ.行動障害の対応

 行動障害と呼ばれる利用者がいる。その多くは「問題行動」と呼ばれる行動を行い日常生活に生き辛さを抱える。「問題行動」の多くは本人の意思表示であることが多く、各々が抱える障害特性により周囲への意思表示や表現が歪んだ形で現されている。

「問題行動」と呼ばれる諸行動への対応には支援者側の知識が重要である。しかし、実際の現場では「問題行動」に対してどれ程の職員が対応方法や知識を有しているだろうか。上司や先輩職員が「問題行動」に対する知識を有している場合はOJTや施設内研修などで諸問題に対する解決方法を共有する事は可能であろう。一方、上司や先輩職員が「問題行動」に対する知識を有していないとすると日々繰り返される「問題行動」に対して支援員たちは憔悴しきってしまうのではないだろうか。

支援員は、繰り返される問題行動に、繰り返し対応し続ける。何らかの効果が出れば良いが、効果が希薄であると、次第と「何度繰り返えすのだろう」「いつまで続くのだろう」という終わりの見えない疲労感が心を埋め尽くして行き、自身の支援の無力感に支配され始める。こうなると、支援自体の放棄が芽生え「いかにその行動を統制するか」という思考に転化してしまう。

行為の統制には少なからず強制的な側面があり、始めは簡単な声かけ程度であったものが、次第とエスカレートして行き最終的には強引に行動を制止させるに至るのである。ではなぜ支援者側の行為が次第とエスカレートしてしまうのか。

行動分析学では、ある行動がエスカレートする背景には「因子の強化」又は「因子の弱化」が働いていると考える。例えば、公共の場で子供が泣き叫んでいるとする。周囲の人たちは、何事かと子供を見始める。親は子供の気持ちを切り替えようと試行錯誤するも、子供は一向に泣き止まない。ついに痺れを切らした親が子供に対して「静かにしなさい」と叱る。すると子供は泣き叫ぶことを止めて静かになった。この一連の行動を親の立場から見ると以下のような流れがある。因みに括弧書きの部分は親の心情と仮定する①子供が泣いている(なぜ泣き止まないのか、うるさいと感じ始めた、周囲の目が気になった)②「静かにしなさい」と叱ってみた③静かになる(泣き止んだ、うるさくなくなった、周囲の目が気にならなくなった。)行動分析では行動には必ず先行刺激があると考える。この場合の先行刺激としては①の子供の泣き叫ぶ声である。先行刺激に対して親が取った行動は叱るというものであった。その結果、子供は静かになった。極めて平易に表現すると「うるさい」から「しかる」という行為を経て「しずかになった」「周囲の目が気にならなくなった」という結果を親は得たのである。そして、「しかる」という行為から「しずかになった」「周囲の目が気にならなくなった」という親の立場からすると好意的な結果(因子)が得られる。すると、この「しかる」という行為が好ましい因子(好子)となり一種の成功体験として蓄積される。これを、行動分析学では「好子出現の強化」と呼ぶ。

また、「好子出現の強化」では得られた結果がより好意的であればあるほどその行動は強化されるという。おそらくこの親は次に子供が泣き叫んだ際も「静かにしなさい」と叱るであろう。

これを利用者と支援者という立場に置き換えてみると、支援者の不適切な行動が徐々にエスカレートしてしまう要因が見えてくるのではないだろうか。すなわち、利用者が「問題行動」を行った際、「問題行動」への対応に憔悴しきった支援者が半ば強引な行動を取り、結果として「問題行動」が一時的であったとしても収まったとする。この場合、支援者側には自身が取った行動が強烈な「好子出現の強化」としてインプットされてしまうのである。

次に、これを利用者側の視点に立ち考えてみる。自身が取った行動に対して支援者側から何らかの処罰が下されたことにより、利用者は「この人の前でこのような行動をとると怒られ嫌な気持ちになった」という負の感情を学習する。そして嫌な思いをしたから次からはその行動を控える。という思考が働く。これを行動分析学では「嫌子出現の弱化」と呼ぶ。これは、いうなればマイナスのイメージによる行動の抑制であるため、マイナスのイメージを避けようとする行動に転化し易い。したがって、この場合では「この人がいない場所でなら大丈夫」という思考に陥り易すく、結果として別の支援者の前で問題行動を繰り返すのである。

別の支援者の前で問題行動を繰り返す様子を見た前述の支援者はどうするだろうか。「好子出現の強化」となった行動をとるのである。さらに、「嫌子出現の弱化」という相手の反応は支援者にとっては「好子出現の強化」をさらに強化させる事となり、「叱る」という行為だけでは物足りなくなり、その次の段階へとエスカレートしてしまう危険性をも孕む。


ⅱ.支援者の思考

 福祉業界全体は人手不足であるという。この背景には様々な要因があり、一概に何が原因であるとも言い難い状況でもある。また、人手不足は慢性化し、少ない人員の中での支援は支援者に無理を強いる環境に繋がり、結果的に退職者が生まれ人手不足が加速するという負のスパイラルに陥りやすい。

慢性的な人手不足は支援員を「いかにその日一日を事故なく過ごせるか」という思考へと変化させていき、いつしかそれが目的となってしまう。なぜなら、施設においては事故による怪我が無いという事実だけ切り取ればそれは褒められるべきことでもあり、利用者の安全という観点からも推奨されるからである。そもそも、施設としての「事故が無い」という事柄は提供するサービスのほんの一部でしかなく、本来の施設の意義は利用者の支援が一番の目的である。しかし、支援者としては何事も無く過ごせた、怪我が無かった、事故が無かったという「分かり易い基準」は日々の支援の中で自己の取り組みを顧みる際に「分かり易い」が故に一番の評価基準となってしまう。そのような環境下ではおのずと職員は事故の無い一日を過ごすことが「良い事」であり、事故が起きてしまったことが「悪い事」という二者択一の思考となるのではないだろうか。

 ではなぜ現場の職員は施設の本来の目的とは裏腹にそのような二者択一の偏狭な思考を作ってしまうのか、また、なぜ「分かり易い基準」を自己の評価基準としてしまうのか、幾つかの例を挙げ考察したい。

例えば支援者が良かれと思い取った行動から事故が起きたとする。その際に先輩職員や上司が「なぜ起きたのか」ということに焦点を当てずに、事故を起こした当事者(支援者)を一方的に責めるような場面があった場合、責められた支援者は「責められることは嫌だ」という感情が働きその場から逃れようとの一心でたとえ自身に落ち度が無かったとしても謝罪し、その場を一度は収めようとするかもしれない。そして、また同じような事を繰り返して責められ謝罪するくらいならと次からは支援が消極的になるのではないだろうか。すなわち①責められた②謝罪する③責められなくなるという「嫌子出現による弱化」が起きる。このような状態が日常化していくと、当該支援員は「事故を起こして責められるのは嫌だ」という意識が常に働き、事故を起こさない為には「利用者が大人しくしてれば事故は起きない」という考えに帰結する。すると、自身の身を守りたいという思惑からか事故の原因を利用者へと転化し、事故を起こさない為には利用者を見張っていれば良い、制止させれば良いという思考へと陥りやすい。

 さらに、事故が起きずに一日を終えた際に、先輩職員や上司から評価を受けたとする。職員からすると①褒められていない②褒められた③嬉しかったという段階を踏み、これが「好子出現による強化」となり、前述の事故が起きた際の「嫌子出現による弱化」と相互作用を起こし「事故を起こさず一日過ごす」ことが自身の中でも「良い事」「すべきこと」となり目的化し自己評価の基準となるのではないだろうか。

 そしてこのような自己基準が定着すると、後輩や部下が出来た際には自身が先輩職員や上司から受けたことを同じように繰り返すのである。ここで重要なことは、先輩職員や上司もそのような環境の中で「経験を積んできてしまった」という事実である。この事実が延々と繰り返されることで、利用者目線ではなく支援者本位の職員を誕生し続ける要因となっているのである。


≪支援者が置かれている環境≫

ここまで、行動分析学の観点から支援員と利用者の関係性を見てきたわけだが、虐待へと発展する過程には、もう一つの重要なファクターとして「支援者の置かれている環境」があると考える。環境が人間の心理面や行動に何らかの影響を与えることは心理学、社会学の分野においても多くの研究がなされている。

支援員の多くは、障害者福祉の仕事を志した当初から虐待を犯すような精神状態であったはずが無い、ここでは、支援員が置かれている環境が支援員の初志を歪めてしまう要因について考察する。

なお、ここでの「環境」の定義としては、ⅰ支援員が求められている役割、ⅱ支援員が働いている職場環境の2点とする。


ⅰ「支援員が求められている役割」とは

 人間は社会生活を営む上で、その成員としてそれぞれ役割を演じている。例えば、一人の中年男性がいるとする。この男性は家庭では父親であり、夫であり、男性の父親からすれば息子であり、勤め先では上司であり部下でもある。即ち、置かれている状況により役割を演じているとも考えられるのである。そして、その役割は能動的に選択できる役割と、受動的に受け入れざるを得ない役割とがある。

 では、「施設支援」という状況において支援員が演じてしまう「役割」とは何であろうか。障害者福祉というキーワードを基に思いつくのは、「利用者の生活をサポートし、その秘めている可能性を最大限に発揮させるための手助けを行う者」といったところであろうか。しかし、実際の現場では必ずしもそのような支援員ばかりが「役割」として求められているわけでは無いように感じる。現場が求める支援員が前述のような「事故を起こさない」「問題行動を起こさせない」という支援者本位の価値観であった場合、周囲が求める支援員の役割とは利用者視点から乖離したものになってしまう。そして、虐待事案を起こす多くの支援員は周囲が求める支援員(この場合、支援者本位の価値観に基づく)の役割を選択してしまうのではないだろうか。

 役割について、アメリカの心理学者であるフィリップ・ジンバルド博士が興味深い実験を行っている。1971年博士は、スタンフォード大学の学生を対象とした「スタンフォード監獄実験」という実験を行った。ここでの詳細は省くが大まかな概要を記述する。被験者は大学の地下に設けられた仮の刑務所において看守役と囚人役に分けられ、各々が与えられた役割を演じるという実験であった。実験開始から数日のうちに囚人役は鬱症状と極度のストレスによる健康被害を起こし、看守役はサデスティックになり人間性を失う寸前にまでになってしまったという。そして実験は早期に中止される。

 この実験からは、以下のことが読み取れる。人は権威者と被権威者という2つの役割を与えられた場合、権威者はその役割を全うしようとするあまりに、被権威者に対して指示的となり指導、指示の名のもとに次第と行動はエスカレートしていき、さも当たり前のように過激な行動を取ってしまう。そしてそのような行動を繰り返すうちに善悪の区別が薄れて行くのである。また、被権威者は役割を演じるうちに権威者に対して次第と従順になって行き、自身の置かれている立場を受け入れ、半ば諦めにも似た感情に支配されてしまう。

では、この構造を施設に当てはめるとどうなるであろうか。おそらく、権威者が支援者であり、被権威者が利用者に該当するのではないだろうか。施設という限られたスペース内で、且つ利用者が支援員の指示に従うという状況が揃った場合、支援者は知らず内に利用者に対して権威的となり歯止めが効かなくなる。そしてそのタイミングで周囲から前述のような「支援員」の役割を求められた場合、自身が行なっていることを肯定されているという認識に陥ってしまい悪しき役割を演じ続けてしまうのである。

 ここで一つの疑問が残る、なぜ虐待を起こしてしまう支援者は「現場が求める役割」すなわち、支援者本位の価値観に基づいた役割を求められた場合、能動的に選択できるはずなのに受動的に受け入れざるを得ない状況になってしまうのか。ここには、施設という独特の環境要因が大きく影響を及ぼしていると考えられる。

 

ⅱ「支援員が働いている職場環境」とは 

アメリカの社会学者ゴフマンはその著書「アサイラム」の中で全制的施設(total institution)の定義として、①生活のすべてが同じ場所で営まれ、且つその生活が一つの権威によって規制されている事(施設利用者の生活すべてが組織の持つ権威の下で営まれている)②利用者の日常生活は同室の人々や同じ棟の利用者と常にその行動を共にすることが多い。その為、職員からは画一的に扱われ、同じような生活行動を取る事が要求される。 

そして「全制的施設」の問題点として、①地域社会からの隔離②一般社会で当たり前とされる役割や活動の剥奪③施設側が作ったルールの強要(ルールを破った際の罰を正当化するメカニズムが生まれる)④自己決定権や意見表明の剥奪などを挙げた。

 また、光野有次は、生活施設に見られる閉鎖的体質として①隔離性(人里離れた所に施設がある、地域社会から分断された生活環境)②吸引性(社会の諸機能を施設内に取り込み、結果的に利用者と地域社会との接点を失わせる)③効率性(集団を対象とした対応が効率的な支援に繋がるという考えに基づく集団管理的ケア)④目的性(明確な意図が無い限り外部からのアクセスが困難)⑤自己完結性(施設と言う小さな閉鎖的社会を作り上げ施設内だけで生活機能が満たされてしまう)などを挙げた。ゴッフマンと光野の考察は施設の閉鎖性と施設独自の価値観に支配された特異的な小社会を生み出す要因を示唆した。

 このように支援者が働く環境とは、およそ一般社会とは大きく乖離した社会環境であり、そのような環境に長く身を置けば置くほど価値観は歪められてしまうのだ。そして正常とは言い難い価値観の中では、歪んだ役割に疑問すら抱くことがなくなりその役割を「正」であると受け入れてしまうのではないだろうか。

 以上これらの環境要因と、行動分析から見た「好子、嫌子出現による強化、弱化」などが相互に関連し合い、虐待を行いやすい環境と価値観を形成し、その行為が悪であると感じる心すら奪ってしまうのである。


≪終わりに≫

本考察では、人間は周囲の行動と環境により、その価値観や行動が変容してしまう。それら要因により変わってしまうのであれば、それら要因を「負」から「正」に変えれば、人間の行動と価値観はいかようにも変える事が出来る示唆でもある。





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