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HSP看護師がライターを目指すまでの軌跡 〜パート1〜

みなさんこんちにちは!
HSP看護師のかなこと申します。
看護師をするかたわら、ライティングの勉強を始めました。
まずは私自身のことを知っていただきたいと思います。
2回に分けて紹介させていただきます。
●1回目:子供時代~看護学校時代
●2回目:看護師時代~現在
私は自己肯定感が低くて、自信がなくて、ネガティブ思考です。
こんな私でも今、元気に生きていることを知ってもらえたらうれしいです。
そして、今、仕事や人生に悩みを抱えておられる方の光になればうれしいです。

どんな子供だった?

3人兄弟の長女として生まれました。長女というと皆さんどんなイメージを抱かれるでしょうか?
「しっかりもの」「お世話好き」などといったイメージがあるのではないでしょうか?
私はそのようなイメージとは真逆の子供でした。
どのような子供だったかというと…
「ぼーっとしている」「言われないと動けない」「引っ込み思案」
世の中のイメージとは程遠い子供でした。
ストレスに極端に弱く、子供時代は体調を崩すことも多く、いわゆる虚弱体質でした。友達はそこそこいたものの、集団生活になじめず、自己主張できず、無難にやりすごす日々でした。
自分の意志で何かを決めたという記憶はありません。
理想像は「自己主張がしっかりできて」「話上手で」「いつも会話の中心にいる」ような人でした。
理想像とはほど遠い生活をしていました。
そんな私に転機がやってきたのは中学時代です。
将来について考える授業がありました。
もちろん、自分の意志なんてなかった私は将来の夢なんてありませんでした。
様々な職業を調べていくうちに、ある職業にたどりつきました。
それが「看護師」という職業でした。

なぜ看護師になろうと思ったの?

数ある職業の中でなぜ「看護師」に惹かれたのか?
①自分の弱点である対人関係の克服
②なりたい自分になれると感じた
③人を助けたい
主にこの3点が看護師を目指した最初の理由でした。
当時の私の看護師のイメージは…
・テキパキと働いている
・バリキャリ系のかっこいいイメージ
・人と関わるのがうまい人
そのようなイメージから、「看護師になったら、私変われるかも…」なんて淡い期待を胸に看護師になるべく受験勉強に邁進しました。
ちなみに、周囲の反応はというと…猛反対でした。

私の性格を知っている家族は、これから経験するであろう試練に耐えられないと考えたのでしょう。
もちろん、今思えば当然の反応だったと思います。
何となく生きていた私ですが、一度決めたら曲げられない頑固な性格でありましたので、家族の反対を押し切り、看護への道を志すことになりました。
ただ、すぐに入学できたわけではなく、家族の反対を押し切ったわりには、受験した看護学校は全滅。他の道も考えたのですが、看護師を諦めきれず、両親にお願いして浪人することになりました。
一年後、何とか合格の切符を手にすることができました。

看護学校生活はどうだった?

晴れて看護師になる第一歩を踏み出すことができました。
この時点では「私、変われるかも…」と夢と希望に溢れていました。
ただ、入ってすぐこの思いは幻想だったことを思い知らされました。
最初にも申し上げた通りの自身の性格は、この時点では変わっていないのです。
「引っ込み思案」「自己主張できない」「お世話は苦手」
どれをとっても看護師として働くために必要な最低限のスキル。
今まで通りの生き方では通用しないことが分かりました。
それからは、地獄のような日々でした。
ことあるごとに「あなたはどうしたいの?」「それはどういう意味?」と質問攻めの毎日に心も体も疲弊しきっていました。
それでも、やめるわけには行かない!
親の反対を押し切って、浪人までして、お金を出してもらって、奨学金までもらっている。
初めて、自分で決めることの責任の重さを感じました。
仲間の支えもあり、卒業までこぎつけました。

以上、私が看護師を志した理由です。
「隣の芝生は青い」と言われますが、まさに他人はよく見えるものです。
子供のころから自己肯定感の低かった私は、この「理想像」に常に縛られて生きていました。
看護学校ではじめての試練を受けましたが、まだこのときは、それ以上の試練がくるとは思っていませんでした。
看護師となってから現在に至る道のりについては、次回のnote記事でご紹介したいと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございます。
今、何かに悩んでいる方がおられましたら、「あなたはあなたでいい」とお声をかけたいと思います。


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