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カネがヒトを動かす、受動としての資本家

日本の資本家文化

本を読んだりテレビを見たりして、日常の中で私たちは「資本家」という言葉を耳にタコができるほどによく聞く。

「資本家は、労働者からできるだけ搾取して、自分たちだけ甘い汁を啜っている」

なんてのは、資本家批判(クリティーク)の常套句だ。


そもそもの資本家の原型(アーキタイプ)は、商人に見てとれるだろう。

日本は奇しくも、西洋人の資本主義のために生み出された自由主義経済の軌道に乗ったわけだが、

日本における資本主義もたしかに、江戸の”商”の身分にあったような人が担っていた。

明治期に近代化が推し進められるようになる前から、問屋制家内工業といった言葉で有名なように、「問屋」のように金のある人々が存在していたりもした。

彼らは、まさに西洋の資本家の定義に限りなく近い存在であり、実際近代化を遂げ西洋化した後の日本では、それらに符合した

かつて商人や問屋に代表されたような資本家が、どうしてあれほどの資産を得るに至ったのか。

その資本家文化については、経済学やらなんやら、幅広い分野で連綿とした研究の蓄積が行われている。

古くは例えばマルクスに始まり、彼の考え方は現代の経済学を成り立たせるうえで”基盤”として機能している。

私自身は政治やら経済やらに疎いので、この記事で最先端の学説で以てズバッと彼の考え方を一刀両断するなんてことをする気は毛頭無い。

私がこの記事を通して考えたいのは、そもそも資本家は利潤を追求する”亡者”であると考えるような、資本家を主体とみる風潮へのクリティークである

資本家の”亡者”化

そもそも、「資本」という言葉が指すのは一体何なのだろうか。

「何なのだろうか」という曖昧な問いしか立てられないことに、この術語の高度な抽象化が見て取れるように思うのだが、

マルクスとカントとを考え合わせた柄谷行人は、「資本は自己増殖するかぎりで資本である」と説明する。

―資本の本質には、「自己増殖」という欲動が隠れている。(←マルクス経済学の用語)

これは(おそらく)経済学で広く受け入れられている考え方であって、ここに何かしらのクリティークを読み取ることはないだろう。

「資本」というのは、平たく言ってしまえば「更なる投資を生むような投資」を生み出す元手である。

例えば、服のマーケットに目をつけた資本家がいたとする。

彼/彼女はマーケットに出すための服を作らなくてはいけないから、そのためにまずは被服工場を作らなくてはならない。

この工場建設のためにしようされるおカネが、「資本」に当たる。

そうしてできた工場で実際に労働者を働かせ、ようやく服を売り出せる。

売り出した服に付加価値を付けて売り出すことで利潤を得るわけだが、ここで付加価値の不当な分配が行われることが往々にしてある。

労働者は資本家に比べて過剰に取り分が少なくなるのが常であり、これが資本家の”儲け”と呼ばれるものだ。

また、こうして工場で働かされる労働者は、ベルトコンベア方式に代表されるようにかなり分節化された労働に従事することがある。

これは”労働疎外”と呼ばれて、マルクスやアーレントが問題視した…というのは余談。

手元にあった1億円を元手にして工場を作って服を売り出したところ5億円の儲けが出た場合を考えると

コストを引いた4億円のうち3億円を”儲け”にした資本家は、次には2億円を使って更に大規模な工場を建設するだろう。

これを繰り返すようにして、資本の額はどんどん膨れ上がっていく。

これが、資本の「自己増殖」の内実である。

資本家の「投資」という行為は、まさにこの資本の”欲動”を受けてのものだったわけである。

まとめ

もう既に十分に資産のあるような資産家が、それでもなお様々なビジネスに手を出してその資産を膨らませるという、疎外状態にある労働者には理解できないこの行為は、実は資本の本質的な欲動に完全に統御されてしまった”亡者”の所業であると解釈することができる。

そこには、資本家自身に貪欲さ(冒頭で書いたような、搾取するという意図)があるというよりは、資本それ自体が資本家がそうなるように仕向けていると考えるのが良いように思えてきたことだろう。

資本を寄生虫に例えるならば、資本家はその宿主なのである。

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