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世界の”分節化”とその個体差【誤読で他者を見る②】

「他者」を考える意味

今回は、私がよく口にしている”分節化”について、少しまとめて書いたものを置いておこうと思います。

ぶっちゃけ、本稿の内容はあまり「誤読」とは繋がりはないように思えるかもしれません(そっちに寄せて書かなかったので)が、

他者性が浮き彫りになる良い例のひとつだったので前回の記事の続編にしておきました。

再三口にしている他者について結論だけ先に述べてしまうと、「私ではない誰か」のことが他者です。

なぜ私がわざわざこの他者をテーマにしているかといえば、

私と同じような主観の集合体が客体を作りあげているという現象が、なんとも実感の湧きずらいものであり、

実際の局面にて他者性がどのように浮き彫りにされているのか、というのを知るのはとても面白いことだと思ったから

といったぐあいの理由になるでしょうか。

この辺については、自分の中でもいつの間にか気になりだしたもので、

明瞭な理由が思い当たらないのが正直なところです。

さて、前置きが長くなりましたが、本編に入っていきましょう。

図書館と利用者の関係性

図書館というのは、いわば情報の宝庫である。

尤も、「宝庫」と言っても内実は玉石混交であり、ユーザーによってその評価は千変万化する。

では、折角情報がアクセス可能な形で有るのならば、「役に立つ」という正の評価を与えられるような情報を抽出するにはどうしたらよいだろうか。

それを探るのがおそらく(図書館)情報学のひとつのミッションであろう。

情報と私

そもそも、私たちが「引き出す」情報とは、私たちが「必要とする」情報であり、「私たちの内的世界には存在しない」情報と言える。

図書館などのアーカイブで抽出されるべき情報は、私たちが捉える(主観的)世界の分節化を行う上で役に立つ情報だということである。

ここで「分節化」という言葉を出したが、私たちはこの操作無しに日常を生きていくことはできない。

例えば、中学生のAさんが「なぜ雲や月は空に浮かんでいられるのか」という疑問を抱えていたとしよう。

しかし、これは主婦のBさんにとっては露とも不思議に思わないことかもしれない。

つまり、「雲や月は空に浮かんでいるべきものだから浮かんでいるだけだ」という割り切りをするのだ。

さて、この2人の世界の分節化の“レベル”を見比べてみると、BよりもAの方がより微細な分節化をしていることになる。

Aさんは、「空に浮かんでいる物体」について、その科学的な解釈まで込みで初めて、世界を認識したことに満足するのである。

一方でBさんはそんなことには頓着せず、例えば「どうやったらこの魚の煮つけがおいしくできるのか知りたい」と思って、その「魚の煮つけ」について分節化を推し進めることになる。

が、これは学生のAさんにはとんと興味の湧かない話である。

情報と私たち

このように、一口に世界の分節化と述べても、その内実は十人十色である。

近年はネットワークの発達も相まって、図書館を情報のソースとしなくてもよくなってしまっている節はあるが、

大学生の私のように、ネットで調べても出てこないことが山のようにあるので大学図書館に足しげく通って、情報を引き出している人が存在するのも事実である。

こういった人々に向けて、冒頭で述べたような「役に立つ」情報を提供するのは図書館員の役目である。

そして、彼・彼女らの背後にあるダイナミズムは、ほかならぬ図書館情報学のような情報学であろう。

「内的世界には存在しない」情報を私たちは図書館に求めるわけだが、するとそういった情報は私とは完全に異質なものであるということになる。

平たく言えば、主客が異なるということだが、そういったものをそのまま受け入れるということは、私たちの脳のキャパシティを大きく超えることのようである。

それは、例えば「義務教育によって学んだ公民の話を100%覚えていますか?」と街頭で質問したとき、大部分は「いいえ」と答えるだろう(きちんと調査したわけではないので、信ぴょう性の程は定かではないが...)。

その原因は、私たちがその情報を世界の分節化にどのように役立てていいか決めあぐねているからなのである。

全段落のA,Bの例で言えば、Aさんにとっては「美味しい魚の焼き方」というのは、自分の内的世界を構築する(外的世界の分節化を行う)うえで、全くの不要物であった。

こういった文脈のもと私は前段落にて、図書館などのアーカイブで抽出されるべき情報は、私たちが捉える(主観的)世界の分節化を行う上で役に立つ情報だ、と記したのである。

前々段落の最後で述べたときよりも、「役に立つ」という形容の意味内容が伝わったことを願いつつ、続きを記していく。

裏を返して、「役に立つ」情報を提供できない図書館はどうなるのであろうか。

些か愚問ではあるが、利用者は自分に役立つ情報を得ることができなくなり、社会全体に「分かる」を拡散しようという公共的な図書館の理念をも台無しにしてしまう。

では、何の研究も無しにいきなり、利用者の方々の「役に立つ」情報を提供してください、とお願いされても難しいものがある。

この困難さには例えば、他者性(他者は他者であり、決して分かり合えない)といったことが絡んでいる。

本を書くのは「私ではない誰か」―つまり、他者である。

つまり、私とは世界の分節化が異なるのである。

だが、自分に利する情報を抽出するためにはその分節化のギャップを乗り越える必要がある。

これが構成主義が主張するような「向き合わなければいけない現実」ということになるのだろうが、このギャップを少しでも縮めることはできないのだろうか。

つまり、利用者のコンテクストを汲んだ情報提供を叶える手段はないのだろうか。

他者になりきることは可能なのか?

こういったものを考えていくことにひとつ、図書館情報学の意義があるように感じる。

Amazonや楽天の「あなたへのおすすめ」のような、検索・閲覧履歴に基づく“予測”―「あなたが借りた本と同じ本を借りた人は、他にこんな本も借りています」のような数打てば当たる理論ではなく、

もっと利用者の内的存在に寄り添った客観的世界の提示の手段を開発することが、ミッションのひとつだろう。

私たちがどう「情報」に接し、「検索」を行い、「抽出」を行っているのか、

ある種の圧倒的他者性を超えて、利用者になりきることで知る

というのは可能なのだろうか。

それは、図書館情報学がこれからも探り続けていくテーマなのであろう。

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