見出し画像

J.S.ミルから観る自然科学

はじめに

本記事は、J.S.ミルをトピックの主軸に据えて書いていこうと思うのだが…

画像1

↑J.S.ミル(画像はWikiから)

J.S.ミルと聞くと、おそらく大半の人は「(質的)功利主義者」という側面を想起するだろう。
私も、倫理の授業で習ったときには上記のような肩書の紹介をされたのが記憶に残っている。

しかし、最近読み始めた『功利主義論』という彼の著作によってその認識に若干アップデートが掛かった。

というのが、表題にある“自然科学”に繋がってくるわけだ。

第一原理と科学の関係性

いったい、ある科学の細部の学説は、ふつう、その科学の第一原理なるものから導き出されるのではなく、第一原理によって証明されるものでもない

これは、『功利主義論』の序章に書かれた内容からの抜粋である。

”第一原理”というのは、古典力学で言えば運動方程式F=maとか、熱力学第一法則とかそういう、先ず議論の根底に据え置いてしまったもの(=原則みたいな感じ)というイメージでOK。

そんな第一原理について、ミルはこうも述べている。

ある科学の第一原理として最終的に受け入れられる真理は、実はその科学と密接な関係にある基本概念を形而上学的に分析した結果として得られたもの(小略)科学においては個々の真理が一般理論に先立だつ

自然科学と第一原理との関係性についての具体例として、ミルは樹木とその根の関係性を持ち出している。一方で、それは建物と土台の関係性とは異なるというのである。

簡潔に述べれば、建物の土台は目にはっきりと見えるが、樹木の根は日の目を浴びることはなくひっそりとだが、土台に遜色なく支えているということ。

こうした同じ基盤であっても、これを人間の目から見ると、建物には土台があるのがはっきり分かるが、樹木は幹それ自体で立派に生えているように見てしまう。これは実は誤りだが、人間は根に注目することがない。

より正確には、注目することがないのではなく気付かないのである。個々の事例(=実験データとか)には気を配る。そういった成果として根っこが見えてくるのが自然科学の成り立ちである。

こういったことをミルは指摘したかったのだと思う。

ミルの指摘から浮き彫りになるもの

ミルが指摘した自然科学の成立過程は重要である。

私たちが教育機関で自然科学(理科)を学ぶときには、既に理路整然と体系だったものを頭に叩き込むことになっているのにはお気づきだろうか。

先哲が膨大な経験から帰納した一般原理(=第一原理)を先ず最初に学んでから個々の事例へと向かうという演繹を私たちはこなしている。

つまり、本来は「帰納」であった自然科学の在り方が、学び手の側からすると「演繹」の作業として理解されているのである。

※ここでの帰納や演繹は、経験論や合理論の対比構造としては捉えていませんのであしからず。

まとめ

今日の自然科学の発展はどのようになっているのか、蓋を開けてみる。

すると、「自然科学の成果を如何に人類の発展に活かせるか」という理念の下に、既に出来上がった論理体系を出発点とした議論が多く為されていることに気付く。

尤も、自然科学は日々それまでの知識を集積している、という性格を有する以上、それ自体の興隆の頃のスタイルに戻る機会は稀有であろう。

このように現行の自然科学は、その探究のスタイルにおいて演繹を主流にしつつあるが、かつての相対論や量子論といった帰納的な試みがあったことを忘れてはならないように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?