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分かりやすく教えるということ

この記事では、少し硬めのことを書いていこうと思う。

麻雀のことで頭がいっぱいなわけではないんだよ☻

なぜ分かりにくい授業になるのか

人に何かを教えるとき、誰しもが「分かりやすい」を目標の一つとするだろう。

そりゃ、誰だってわざと難解になるように教えているわけではないのだから、当たり前の話だろう。

それでも難解になってしまうのは、教えている相手が自分とは違う他人だからだ。

自分の理解している内容と、相手が理解しているそれとの間には齟齬があり、往々にしてそのズレを踏まえるのはとても難しい。

互いの理解が噛み合わないと、”ル・バー”のような教育界で指摘されている話が効力を発揮することになる。

つまり、生徒の側がいつの間にか、教えてもらった内容を、自分の見ている(狭い)世界の中でのみ成り立つ極端な内容へと誘導してしまうのだ。

例えば、理科で「力」を習うと、日常世界で使っている語での使用と混同してしまい、等速で運動している物体に「力」が掛かっていると”誤解”してしまう。

上述の議論は、いわゆる中世スコラ哲学の”インペトゥス”理論になってくるが、これは現代力学(≒Newton力学)で云うところの「力」(刻印力)とは少し毛色の違うものである。

※尤も、Newton力学、と形容したとき、これはNewtonがプリンキピアで述べた内容をそのまま指すわけではなく、現代の私たちが教科書で学ぶ内容を指してのものである。だから上で、古典力学ではなく現代力学、と表現した。

話が少しそれたが、いわゆる「頭が良い」と言われる子たちは、自分で色々な本を読んだりして、常に教えられた内容を「正しく」理解しようとしているので、ル・バーに陥ることが少ないのかもしれない。

いずれにせよ、ル・バーが発生するのは避けられないことである。

これ自体が問題なのではなく、それを見抜くことが難しいのが本質的な問題であるように思われる。

教科書では、その辺のサポートが薄い。

教員の側も、そもそもそういったル・バーに陥らなかった分野を専門として教えることになるので、ル・バーを解消するのはますます困難になる。

なぜなら、ル・バーに陥らない、ということはすなわち、授業の内容を正確に追えているということであり、いわゆる得意教科の部類に入るからだ。

学んだ内容を自分できちんと吸収し、「正しい」運用方法で体系化することができているのだ。

だから、理科教員が理科の範囲の生徒のル・バーを克服させようにも、そもそも何がル・バーになっているのかピンと来ないので、自分が理解した通りの話をして、納得してもらおうとする。

自分がすっと理解できたのだから、他の人もこれで分かってくれるだろう、というこの甘い期待は、だが結実しない。

これが、冒頭で述べた、「分かりやすい授業を目指しているのに、分かってもらえない授業になってしまう」現象の現状だろう。

ブルデューの意味とはちょっと違うが、エリートが再生産されているのだ。

つまり、教科書的な説明で理解できる人が「頭が良い」人であり、そういった人こそ大学に進んで、エリート街道を進むことを期されるのである。

その中には、大学教授になって教科書を編纂する立場になる人や、再び中学・高校という場に戻ってきて今度は教鞭を取る人だっている。

そしてその人たちは、従来の教科書的な内容記述で理解してきた人たちなので、再び教科書さながらの授業を展開する。

それを受けた子どもたちの中で、「頭が良い」と認定されると、先の繰り返しが発生する。

特定の理解の仕組みに上手く順応できた人たちが社会を作っていくのである。

完全に余談ではあったが、こうしてみると、ブルデューの文化資本の再生産そのものといえるように思えてきた。

分かりやすさとは

色々な指導法が考え得るが、例えば既に報告されているル・バーを踏まえて、生徒の認知的不協和を呼び起こすような授業を計画する案が出てくる。

これは、いわゆる「ドヒャー型」のル・バー対決であり、何か一つインパクトのある矛盾を指摘して、自分のル・バーに気づかせるものだ。

しかし、自分中に確固たるル・バーを持っていると、こういった指摘はなかなか受け入れられない。

かのアインシュタインも、量子論に否定的だったというのだから、そんな気もする。

ではこういった人にはどう対処するかといえば、「じわじわ型」のル・バー対決を申し込むのだ。

ここでは、一つ一つ相手が納得する議論を積み重ねることで、相手のル・バーを解きほぐしていく

ソフィストの三段論法みたいか?

こちらは、自分が理解を誤っていた箇所が分かりやすいようにも思える。

教師の側は、どのように議論を積み重ねるかよく考えることになる。

教科書通りの説明の組み立て方が、必ずしも有効でないことは、前章で確認済みだ。

個人的には、まず聴き手がびっくりするような話題を出して、それからひとつひとつ理解を確認していく、という折衷案のようなものを常に意識している。

間違えるから、分かる

ル・バーを解消するには、やはり「対話」が重要になるだろう。

特に、術語(教えている内容で、専門的な使用を要求することば)の使用について重点的に指導することが求められるように思う。

ことばを正しく使用できずに悩んでしまうこどもは多い。

先も見たように、「力」という術語が「正しく」使えていないためにミスリードしてしまっているケースもあるようである。

語学は、間違えるから上達する。

それと同じで、術語だって「正しい」使い方を知っている先生のもとで、間違えながら学ぶことで、その使用法を体得していくのである。

分かりやすい、を目指すならば、まずは術語の使い方をしっかりと指導することが望まれるだろう。

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