芸術学のアンプ的機関としての働きと、その器官としての受容
はじめに
芸術学の講義の期末課題で、書いたものを投稿しとく。
だいぶ粗削りだし、結局曖昧なままに投げ出した部分*もあるが、結論として言いたいことは言えたので、まあとりあえず完成ってことで。
*芸術学を学問として捉えるところから出発したのに、いつの間にか器官としての話に入れ替わってるところとか
本編
ここでは、芸術学とは何なのかという疑問から出発し、そこから見出された芸術学の諸性質に基づいて、芸術と私のこれからの関わり方について論じていく。当該講義では、芸術作品と芸術学との間の相違について深く踏み込むことなく、雑多な区分けで考えてしまっていた節があるので、ここではその差異を洗いなおすところから再出発することにしよう。
初回の授業で、芸術とは「自己の原理(=宗教・教育に縛られない自律性)に基づいて、劇的な変化をしつつ、現在も変化を続けている」ものだと説明された。「劇的な変化」については、歴史的には例えばダダイズム・シュルレアリズム、現代的にはコンセプチュアルアート・パブリックアートなどが挙げられるが、これらの意義・価値は全て「芸術学的」な尺度で以て感じられた。この尺度はいかなるものか。最終回の講義においては、「芸術は人間の豊かなありようを表現するもの」であり、一元化されない複数性・多元性が保障されているべきだと述べられていた。では、芸術学はどうあるべきか。芸術学は、その名の通り芸術を対象とした学問であるから、ではこれまた単なる「美しい」という形容詞には一元化されない、複数性・多元性が保障された観点から成り立つものであることが望まれるのだろうか。
結論から述べれば、是である。「芸術」と一口にいっても、その本質は作品自体ではなく芸術家であろう(※シュルレアリスムは、芸術家という意識の輪郭を抜け出した超自我的なものを目的とするため例外的な扱いになろうか)。美術館に行っても、芸術学の講義を受けていても分かることだが、これはキャンバスに何が書かれているのかよりも芸術家の名前に金銭的にも精神的にも価値を見出していることに見て取れるだろう。何かの教科書に書いてありそうな見知った名前が登場して、その人の作品の「芸術学的」な尺度での講釈が延々と続くのは誰しもが一度は経験したことだろう。より深く分析させてもらうならば、例えばダダイズムのデュシャンの作品は、デュシャンが「理性の光がもたらした近代化の果ての戦争に対する否定」をしたいと思ったから生じたのであって、トイレの便器が勝手にダダイズムを表したわけではない。作品の生みの親たる芸術家がコンテクストを創出し埋め込むからこその芸術作品(=「芸術学的」な価値が生じる)であって、デュシャン無くして「泉」という作品は成り立ちえないのである。つまり、「芸術学的」な尺度とは、芸術家がこのようにしてコンテクストを吹き込む過程に注目し、それを評価しているといえる。この意味で、芸術学は、文学的であり、構造学的であり、人間学的であり、心理学的であるのだ。更に煎じ詰めれば、芸術作品の複数性・多元性というものは、前述のように芸術家の影が作品の裏につきまとっていることに起因するとも言えるだろう。
全段落のレトリックを整理しよう。芸術学とは、芸術家が作品に与えた意味づけ(もっとも、作品が先にあってそれに意味づけするのか、コンテクストがあってその延長に作品が出来上がったのかは、鶏と卵の議論にしか感じられないので、ここでは深く突っ込まない)を評価する学問であり、その意味で芸術学は作品ではなく人間それ自体を吟味しているのだった。人間それ自体の本性が一元化されるはずがないのは、日常生活を軽く見渡すだけでも自明なものである。更に芸術家は炭鉱のカナリアであり、多元性を抑圧し一元化しようとする圧力への恐怖を色濃く作品に表出させることによって、多元性を世間に提起する。それを芸術学がキャッチし、「芸術学的」なシグナルに変換して、私たちに再提示するのだ。楽器機材でいうところのアンプ的な役割であろうか。こうした文脈のうえで、全段落冒頭の「是」の説明を締めることができるだろう。
全段落最後の、私たちに再提示する、という部分から、ようやく本稿の論題に入っていくことにしよう。芸術学、即ち芸術家の多元性を増幅するアンプ的機関が、一元化してしまう―すなわち、同じ音をずっと出し続けるとどうなるだろうか。キーンという音がずっと鳴り響く世界に閉じ込められると、人は発狂するだろう。それと同じことが、ナチスドイツの頽廃芸術において起こったことは講義で学んだとおりである。「『よく分からない』作品に高い金を払って収納している美術館はおかしい!」という大衆の雰囲気を助長したのは、ほかならぬナチスの頽廃芸術という一元的なアンプ機能によるものだった。では、日本に目を向けてみよう。日本は戦後民主化が進められて、戦前と比較して多元性が尊重されるようになったと教科書的には言われる。しかし、よくよく目を凝らして美術館に行くような人たちを見ていると、大半の人は、「美術館に飾られているからなんかすごいんだろう」とか「レンブラント?なんか有名ですごいらしいし行くか」といった心持ちでいる。それは、私が実際に美術館に行って他の来館者の様子を眺めてひしひしと得た実感である。作品それ自体をじっくり見ることはなく、まるで大量消費のコンテンツの一種であるかのように、次から次へと時間に駆られるかのように流し見していく様は、そういった軽い心持ちの表れ以外のなにものであろうか。では、そういった作品を集めたのはだれか。私もその方面に明るくないため、詳しくは知らないが、講義で紹介されていた話から判断するに、金持ちが嗜好品として大枚をはたいて買ったもののコレクション的な側面がどうにも強いようである。レンブラントが好まれるのは、「なんとなく」色使いが「美しい」からであって、結局来館者の側もその「美しい」という価値観を無批判に受け入れることになっている。美術館というアンプが一元的な波しか出さないために、人々もまた「美しい」という評価しか知らない一元的な視野を自己の内側に固定させてしまうのだろう。私が、この構造に違和感を覚えたのは、芸術学という視点から作品をまなざすということを学んだからかもしれない。あるいは、単に昔から斜に構えることが好きだったせいで、普通の人の感性に同調できない影響が出ただけかもしれないが、前者だとするならば、芸術学というアンプデバイスを自己の内側に据え置くのは案外悪いものではないだろう。芸術学という複数性・多元性をうちに秘めた機関を、まさに器官として自身の眼球や鼓膜のうちにでも埋め込み、芸術家のカナリア的な鳴き声に耳を澄ませ、そのメッセージに目を凝らすのは、芸術自体が秘めている楽しさであり、私はその楽しさを享受できるようになったのだから。
第2回の講義あたりで、芸術とは「色々な人が色々な意味を汲み取れるリソース」だというくだりがあったことを記憶している。これの面白いのは、先ほどまでの「芸術家をまなざす」ことによって楽しみを得るのとはまた違った楽しみ方が示唆されているからだ。これまた、芸術学というアンプ的機関が関係しているように思えてならない。全段落では、芸術学が単なる学問的な機関という役割を超えて、私たちの身体の一器官として芸術の楽しみ方を教えてくれる可能性を提示した。ここでは、その器官性がますます浮き彫りになっているように思える。というのは、私たちの身体にはそれぞれ抗原特異性というものがあり、例えば骨髄のドナー制度はその好例だ。私たちの身体を構築する最大単位である器官は、このように私たち一人ひとりに適した形で在る。芸術学というアンプ器官もまた、特異性を示すのではなかろうか。つまり、人それぞれで芸術家のカナリア的な鳴き声の増幅加減は異なるし、メッセージ性の読解には、バルトが言うところの作者の死を経験し、間テクスト性とでも言うべき誤読・誤配がはびこっているのではないだろうか。勘違いしてはいけないのは、この誤配は決して悪しきものではなく、むしろ複数性・多元性を助けるという観点からして、あってしかるべきものだということである。
以上、芸術学とは何なのか、その性質を「アンプ的機関」と述べ、更にそれを「器官」として身体のうちに取り込むことを提案した。私たちは、あたかも身体の一器官として芸術学と関わることができるのではなかろうか。
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