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シーソー

君の代わりは幾らでも利く
そんなの大概の誰しもがそうだ

頭ではわかっている
そんな事を考えた所で何も産まれない

20歳の時
そのままを病人に吐いた
今もその時の表情を覚えている
そしてその人は治療の為に壇上から降りて
行方はその後知らない

そこから言霊の呪いに定期的に掛かるように
当然だと思う

ぶつかる時に
言葉で踏み越えてはいけないラインがあって
今でこそだいぶブレーキは利くようになったけど
ふとずっぽし、奥まで言葉の刃を押し込んでから
時計回りに捻ったりしてしまいそうで
そういう時はなるべく自分から引くようにしている

ギア型な分、状態を入れてしまえば躊躇いなくいける性質だし
重ねていくとそれそのものに慣れてしまう
慣れた事に気が付いたころ、した事そのものがふわっと
後ろから肩を叩いて覗き込んでくるし
振り切る為のあれこれはいまいち効果はないみたい

それでも超えちゃいけないライン際で
せめぎ合うのも割とやめられない
うまくいけばより深いところで話が出来るし
失敗したら手痛い諸刃が飛んで来る訳で
本当にリスクしかないのにやってしまう

生きていく為の理想と
生き抜く為の悪意や打算が
ぐらぐらと右に左に揺れ続ける塑性変形に対して
耐用年数がわからないままあと何年位耐えられるのかなぁ
そんな事も思って、けどそれも結局
考えた所で何も産まれない

と、思ってた

産まれてた
割と身近過ぎるものでぽんぽんと

まだまだ揺らし続けなきゃいけないみたい

でもそれすら楽しみを見出してしまいそうなのは
いいことなんですかね、どうなんですかね
最近は社会貢献なんて大それた事が脳裏を掠める割に
こんな根本的な所でこわい気持ちになるのって
おもしろいなって思った

そもそもこんな気持ちをまだ持ち続けてる事も充分に
哀しいけれど、おもしろい

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