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A Handful of Sand

一握りの力
どうやっても使える力は限られている

24時間の呪縛からは逃れられない
眠らないという選択に対して
先に使った睡眠の前借分はしっかり追徴課税付きで追いかけてくる
それが体調にだったり、心にだったり、生活だったり
20代の頃は眠らない事が秀でていると思っていた
馬鹿な話だ、ちゃんと取り立てに来る

力がないんじゃない、どこに使うかでしかない
使う力の宛もそんなに多く散らせない
少なくとも自分には出来ない
やろうとすると必要分のペルソナが顔を出してくる
それは最終的に一番、自分がダメージを喰らう事になる

だからいつも選択をしている
どうしても選択が必要になる

どうしても100しかないものは
どうしても100でしかない
最近そういう事を受け入れられるようになった
そういう意味では「一握」がやっとわかったとも言える

全部欲しいから全部やる、も好きだ
そういう気持ちを捨てた訳じゃない
特に悲観もしていない
やろうと思えばすぐに出来る
睡眠負債の取り立て人とも付き合いが長いし
天気雨気味に出てくる仄暗い気持ちとも最早親友だ

でもやらない
これじゃ何も守れない
慢性的に握りこむよりも瞬間的に強く握る

生きるために30、潤うために30、人へのやさしさに30
あと10の余力を残す
今はこれがベストの振り分けの選択だと思っている
一昔前なら鼻で笑いそうな振り分け方
退屈な気もしたけど、そうでもない

出来ない自分を認めなくてはいけない
やらない自分も認めなくちゃいけない

その中で調和を取ろうとするのは中々難しい
こんな所でも所謂「普通」の水準の高さに口が空く
残酷な気持ちにもなる
やってきた自分を否定する気持ちにもなるから

そんな所に90も掛けて10じゃ何も掴めない
だから馬鹿だと言われても全ツッパで踏み切る
っていうのは生き死にがヒリついて本当に楽しい
割とすぐにそういう気持ちがふつふつ湧いてくる

けど、それじゃやっぱり守れない
目の前で大事な人が倒れても
腕に力が入らない、振り切っちゃってるから

あっさり目の前で死ぬ

その事実をただ見るだけになる事になる

ドラクエの王様みたいに
「おお大切な者よ、死んでしまうとは情けない」
とでも言えるメンタルはない

散々やってきた事や自信は時として
呪いにもなると思うのよね
絶対的に守らなくちゃいけない、なんて決め事は早々無いのに
こうあるべきな過去のゴーストがぐいぐい来る
どんどん呪いが強くなる
生きる事に対してもエンゲル係数みたいなもんがあって
今公園の水で命を繋ぐ生活には戻りたいとは思わない
中々そんな風になる事そのものが今は難しいけど

現状維持は停滞、むしろ後退とも捉えられる
工夫がない生活は思考を止めている事と変わりがない
要するに芸がない
毎日遊んでるような奴から芸がなくなったら
本当の終わりだ、それは笑えない

ライブなんかで見る100が120になる
作られていない瞬間芸
ああいうのは積み重ねの中での奇跡であって
当たり前にずっとは続かない
大概は100のつもりで臨んで良くて80
下手すりゃ65位なもんだ、良かった事は美化される
だから全部をぶちこんで120にしようとする

今まではそれを慢性的にやってきたけど
それを瞬間的に圧縮して出す
タメの無い詠唱が出来る魔法使いの方が結局実践じゃ強い
詠んでる間にぶった切られたんじゃ生き残れない

”歌は私の悲しい玩具である”
そんな風に言い放った石川啄木は

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

なんて短歌を詠んでいた

感情の無い砂が何を以てかなしくて
何を落としていくかだとか
落ちた砂そのものは何だったのかだとか

人の頭の数だけ正解があって
この人そのものの正解は個人的にはどうでもいい
ただ、思考のキーとして借りるには丁度いい

今年も、今月も、今日も、今も選択をする
いつ、どこで、誰と、何を、どのように

大切なものは増えていく
でも手に取れるものは限られる

どうしても零れてしまうものがある

それでも
選択に躊躇いが前よりなくなった
結果として純度も高くなったと思う

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