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[短編]翳月記-えいげつき-


  〇

 煙草……コーヒー……ウイスキー……チョコレート。褐色の毒の夢で残される、気怠い舌触り。
 酒は嗜まず、甘い菓子は好みじゃない。煙草とコーヒーが僕を手放さない。
「喫煙者」は絶滅間際……しかも絶滅を危惧してもらうどころか世界から粛々と滅ぼされているさなかだ。レッドリストに載せてもらえる気配もない。じきに来る未来で、文献の数行に残るだけの影になるだけだ。
 重い煙草がもたらす、かすかな眩暈の中に、脈絡もなく画像が現れる時がある。連想に任せた記憶の断片なのだろうが、明るく健やかなものより、もの憂く不健康そうなものが多いのは、やはり褐色の毒だからだろう。

 今、咥えている一本の煙草で、コッレジョの『ユピテルとイオ』が僕の頭にちらつく。
 輝く白い裸身の背を見せるイオは、面前に湧き起こる、自分を包み込むような暗色の雲の抱擁を受け入れるように身体を預けるように傾けてる。
 その形の定まらない雲からは巨獣の前脚めいたものが生え出て、彼女の脇腹を抱えるように捕まえている、黒い雲中に男の顔……ユピテルの貌が浮かび上がり、彼女の顔に頬をすり寄せ接吻をしようとしている。画面の方に僅かに仰け反らせたイオの表情はどう解釈するべきなのか。得体の知れない影の抱擁と接吻がもたらしたのは、官能の陶酔か、それとも恐怖だったのか。


  一

 そうして、僕はH——市での出来事を思い出す。もう昔の話……まだタバコの吸える場所が、そこかしこにあった頃の話だ。
 コンビニエンス・ストアや駅などに、灰皿もゴミ箱も置かれ、それなりに世の中の回っていた頃。
 その頃……僕は学生から社会人になりしばらく経っていた頃だった。
 当時の勤務先には幸いなことに深刻な妨げも悩みも無かった。平日は一人の社員として勤めるかわりに、休日はその間に身に纏わりついた全てを振り払うよう、遠出をしてみたり、映画やコンサートを見に行ったりと……別人になろうとするかのように歩き回っていた記憶がある。
 大袈裟な事じゃない。月曜日の始まる前に、そこからの週日とは違うことをやっておく……というのを課題にしていた。
 H――市は当時の勤務先のあった町の幾つか隣にあり、電車通勤の往復には毎度、通過をしていたが、それまでは実際に降りたことがなかった。路線中、三つほどの駅があるH――市の、その名前を冠した駅あたりには商店の賑わいがあるようだったが、そこから離れた街並みはごく普通の住宅街が広がっていた。
 特に惹かれるものもなく、機会もなく通り過ぎるだけだったのが、或る時、仕事の用事でその駅に降り、初めてその街に足を踏み入れることになった。
 無論、用事を済ますのが優先で、じっくりと何物を味わうまでもなく目的の顧客の事務所と駅を往復するだけだったのだ。
 任務も滞りなく終え駅に戻ったが、構内に入る間際、持っていた煙草があと二、三本と途切れる前だったのに気づい。
 帰宅すればカートンでの買い置きがあるのだが、帰途で無くなるのは気に入らない。一つ持っておくことにした。
 駅前の広場の一角の小さな店……タバコ屋だったような気がするが……の前の煙草の自動販売機を見つけ、そちらに廻った。人気のない、暗い店の奥には多分店主の住まいに繋がっていたようにも思うが、店の主人はついに姿を見ずじまいだった。
 広くとられたディスプレイの中には、皆のよく吸っていたスタンダードなものと、やや通向けの有名どころに加え、普段はお目にかからないような外国の煙草の銘柄が見えた。
 ……煙草のパッケージの多彩さは見ていて楽しい。特に海外の煙草などは洒落たデザインが一つの作品になっている。新しいものよりも、昔ながらの時代外れのデザインなど見る分には、むしろちょっとした展覧会だ。
 感心しながら一通り見回した後、自分用の煙草を買う段になり改めて目当てを探したら、普段吸っている銘柄の「K」はボタンに「売切」の表示が赤く灯っており、隣には同じものを「軽くした」「Kライト」があるだけだった。……「ライト」じゃ不足だ、お呼びじゃ無い。
 駅の内側のキオスクや自販機ならば「K」は置いてある筈なのでそちらで……と、ふと思い直した。
「前にしていたように試しで……新しい銘柄を開拓してみるか……」
 学生の頃、珍しいものを試してみたり、友人との話のネタにしたりで、馴染みのない煙草を時折吸った事があった。無尽蔵に金がある訳じゃないが、ささやかな冒険として幾度か試して、結局自分は一つに定まったのだが。
 幾つか試したことのないものを選んで見て、その内に自分の目がフランス煙草の「G」の菫色のパッケージをとらえた。名前は聞いた事がある。ずっと前、吸っている人間がいたような気もする。もしかしたら一度くらいはもらい煙草であったかもしれないが……。一度引っかかると、それが唯一の選択肢、それしか無いように思えてきた。スリットに硬貨を入れ、ボタンを押す。落ちる音がして下方の取出し口、菫色の「G」の一箱を掴み、背広の隠しへと入れた。


  二

 ……次の休日、自分の部屋でその菫色の箱を見てるうちに「H――市に行ってみようか」という思いつきが……ごく自然に……浮かんだ。その市に見るべき何があるかも知らずに、ただ駅で降りて見ようと。不思議なことに「空振り」を気にする気持ちは微塵も湧かなかった。「行けば何かしらあるだろう」という確信すらもなく、自動的に……身支度を整えさっさと部屋を飛び出していた。
 天気は……快晴ではなかった、多分曇っていたように覚えている。傘を持ち出していなかったのは確かだ。
 文庫本をポケットに挿し込んで電車に乗った。乗り換えをしてその駅のホームに降りるとさて、新鮮な気持ちは浮かばない。
 ホームの端に一度立ち、喫煙スペースで「G」を一本つけた。馴染みない銘柄のはずなのに、こちらもさほど新鮮さを感じない。……ホームの端、東西に延びた東端から線路越しの南、北を交互に見て、めぼしい目印になるようなものを確かめた。多分、商店街のような地元の目ぬき通りには少しごちゃごちゃしたものがありそうだったが、それらを除くとどの街にも等しくある民家が連なっている。
 何の確信があってここまで来たものやら……と吸い殻を潰して灰皿に落とし、改札の方へと歩いた。「北口か南口か」と口に出したけれどもなぜか既に決めたように……確か「北口」へと自然に向かった。一度来た時は反対側の南口だったので、初めて降りたことになる。一応、駅の出入り口に小振りなロータリーがあったが、タクシーの姿は見えない。駅に向いて店を構えているところもそれぞれシャッターを下ろしての定休日にしているところが大半だった。つまり、平日に主に商売している。この日はほとんど人出が少ないということのようだった。
 どういう心持ちだったのか、その時はむしろ愉快な気持ちでいたように思う。ロータリーの端にその地域の地図看板を見つけて周囲のものを見た。クリーニング屋、金物屋、不動産、理髪店……主にその土地の住人に用のあるような店。この日にここで立ち寄る場所では無いな……と目を上げ、そこから周りを見廻した。遠く高い木のひと叢が見えた。山にではなく唐突に延びてる樹などは、大抵公園や神社などがあるのでは、と見当をつけて歩き始めた。
 途中、民家の間の細い道を行きながら、方向はそれとなく先に見た樹を目印にしていたが、たどり着いたそこは名前も知らない社で、簡単な小ぶりの境内のあるのみ、長居して見るものもなかった。
 しばらくしてその場を離れ、歩きながら考えた。
「これじゃ無い。戻ろうか?いや、まだもう少しは駅から離れても大丈夫だろう」と踏んで、更に道を進んだ。
 だが……何も見える様子もなく、足が疲れるのみだ。細かい道に高低差がついて上り下りするうちにさすがに休憩したくなった。バスの通る道路も無く、ベンチも無く、どこか石の上にでも軽く座ろうかと思い始めた。
 広めの道に出て、しばらくすると看板が見えた。個人経営の喫茶店。漆喰の白壁に木の風合いの屋根、硝子窓周りは少し古めの洋風を意識した造りだが、出ている行灯看板にコーヒー豆チェーンのロゴが入っていた。その上に店の名前「M」と入っている。
 店構えを見て、空気の「懐かしさ」とも違う、なぜか「自分はこれを知っている」という気がした。自分はここに来たのは初めてなのに、世に言う”déjà vu”かと思ったものの、迷うゆとりも無く「別の場所で似た雰囲気の店があったんだろう」と疑問を切り捨てて古めかしい木の扉を開けた。


  三

 店内はコーヒー豆の香りが漂い、落ち着いた明度の照明はセピア色に近い暖色にまとまり、木肌の調度で設えられている。
「いらっしゃいませ」
 女性の声を受けながら内に進み、入り口から一番奥の、景色の見える窓際の席を選んだ。小さいテーブルは二名で対面して座る席だが、他に座る者のない真向かいの椅子に手荷物を置かせてもらった。
 店内は中央に三機の大テーブルとそれをL字に囲み配された小テーブル、そして店主らのいる場と差し向かいのカウンター席にスツールが五つか六つほど……そのスツールには一人、初老の男が座り、これも初老の店主らしき男と何やら話し込んでいる。スツールの男は、着席したこちらを一瞬睨むと、すぐに正面に向き直り常連らしく歓談していた。
「どうぞ」
 カウンターの奥からこちらに来たウェイトレスが冷水のコップを前に置きメニューを添えた。
 普通に相手を見て自分は止まった。鳥肌の立つような……不思議な感覚だった。
 二〇代の女性で化粧は薄く、長い髪を後ろでしばりまとめている。派手ではない素朴な美人に思えた。
 ただ……それだけではなく「この人に見覚えがある」かのような気分が湧いて来た。向かい合って、妙な間が出来てしまった。
「……お決まりですか?」
 困ったように言われ、慌ててメニューの方を手に取りながら開いた。
「あ、はい……すみません、すみません。煙草、大丈夫ですか?」
「どうぞ……」
 カウンターの方から、重ねて合った陶器の灰皿を持って来たのを受け取りテーブルに置く。
 メニューに目を通し、サンドイッチとホットコーヒーを頼んだ、と思う。確か……その日はそれまで口にしたものはなかった。食事もせずに歩き回っていたのだ。
 オーダーを受けた彼女が戻ると、「G」の箱から一本を取り口に咥えてようやく人心地をついた。「G」は自分にはやや強めで、吸い始めでくらりとした。左手の指に煙草、取り出した文庫本を右手でめくりながら届くものを待った。
(コーヒーと煙草と文庫本という栄養素は今現在も変わらずに繋がっている)
 厨房から食事の来る様子がすると、テーブルの上に置き場所を確保するのに自然に「G」の箱を脇に寄せ、その上に文庫本を乗せた。
 店を満たすほどの香りを放つコーヒーと、皿に盛られたみずみずしいサンドイッチ、そして凛とした伝票を裏返しに置くと、彼女は再びカウンターの内側に戻っていった。おしぼりで手を拭いその日、ようやくありついた食事を始めた。
 窓からの眺め……空と地上の切れ目は遥か向こう側に広がる市街地の光景だった。方角からして例の駅があるだろう。この店のある土地の高さと駅の付近には段差があり、窓から見える土地の端の下方、ゆるやかな坂道で繋がっていた。ここにたどり着くまでの出鱈目にふらふら歩いた道ではなく、駅を目標にすればきっと短い時間と距離でたどり着くことができるだろう、……その時に既に、ぼんやりながら頭で、ここに通うルートを思い描いていたのだ。
 少しづつ空模様が暗くなるのを見て文庫本とタバコをしまい出入り口の脇で会計を清算する時に……レジスターに目を落としている彼女の面差しを盗み見た……。店を出て緩やかにおりてゆく坂道を歩きながら、「彼女に会いにこないと」という気持ちでいっぱいになっていた。それはなんとも説明のつかない気分だった。
「一目惚れ」なのか?これまで無かったわけじゃない、ただ今回のがそうなのかというと、どうにもしっくり来ない。何かを思い出そうとしているような焦燥感の方が近い気がした。「思い出すべきこと」があるのに、手が届かない焦り。
 駅に入る前に、一度通り越して反対側に出てタバコ屋の自販機を訪れた。広いディスプレイに鮮やかな「洋モク」。海外銘柄のパッケージが埋まってる、色とりどりのデザインを見て、しかしやはり紫色の「G」が目に止まり、それを二箱買っていた。


  四

 仕事を一週終えて、次の日曜日になった。仕事の日には普段の銘柄である「K」を吸い、休みに入ってH――市に行く支度を決めてから「G」のセロファンの紐を切った。
 電車内では読みさしの文庫本を開いていたが、時折活字が滑りどうかすると「彼女」の事が頭に浮かんで来る……それは仕事の合間でもそうだった。
「彼女を知ってるような気がする」だが「会ったことはない」。
 誰かに似ているのだろうか。
「今迄に会ったりしただれかなのか、それとも有名人の誰かに……」
 芸能人の誰それに似ているというのは、無理をすればいなくもない。ただそういうものはこじつけの類で、ごく自然に感じる印象とはまるで違う。やはり「誰かと似てる」とは違うと思わざるを得なかった。実際、そういう話ではなかったのだ。
 車窓には相も変わらず他人行儀の眺めが流れている。馴染みのない路線の風景と自分とは無関係の人々。
 文庫本の頁に目を落とす。……
 そして目的の駅で電車を降り、今度は寄り道も無く、あの喫茶店を目指す。二度目の日もやはり曇りだった。影の無い町を歩き、前回の帰路を逆に歩き今度は早く辿り着いた。
「M」の店内には店主と彼女、前回もいた初老の男がスツールに。その日は他に中央の大テーブルに三人の中年の女性たちがお喋りに興じていた。入って例の窓際が空いているのを見て、そこに当たり前に腰を下ろした。
 彼女は水とメニューを置いてから灰皿を取りテーブルに配した。注文を済ませてから取り出した「G」を一本、火をともして文庫本に目を落とす。
 僕はウエイトレスの彼女と注文と会計以外の言葉を交わすきっかけを考えていた。……下心と言われても仕方のないような感情のうちに思慮を巡らし、それは読書の内容とない交ぜになっていたように思う。多分実際は本の内容はもっと別だったのだろうが、随分と長い間が空いて、実際の中身は蒸発して、ただ実際のその時には、読んでいた本の内容と彼女に対するあれこれの感情が絡み合いもつれ合っていたのは確かだった。
 そうして本を閉じて読書を中断しない限り現実には戻れない。

 中途で頁を閉じる。頼んだコーヒーが来る気配だ。端に寄せた「G」の箱の上に文庫を重ねて場所を空ける。

 カウンターで初老の……常連らしき男がマスターと話に興じながら、時折彼女にも話題を振って話をしようとしていたようだ。内容は入ってこないが遣り取りの空気が分かる。彼女はどういうつもりともなく、落着いた声音で当たり障りの無い返事をしているようだ。……あの常連男は彼女に対して何かを狙っているのだろうか、馴れ馴れしさを感じ苛っとする。常連男はしきりに話題を繰り出しているようだ、おかげで自分は彼女に話をかけるタイミングや話題の取っ掛かりが掴めない。「小振りの飲食店に我が物顔でいる鬱陶しい常連」そのものだなと呆れ、そして追加オーダーを考えるが、やはり日を改めて……できれば常連の不在時を狙って出直そうかと席を立った。
 会計時に何か声をかけようかと思うも、良い言葉が浮かばなかった。軽く「ごちそうさまでした」と口にしてから店を出るときに件の常連客と一瞬だけ目が合った。心なしか目つきが険しく見えた。……
 帰途、「こんな事の繰り返しは無駄過ぎるだろう」と口に出してみて、改めて実感した。ここを再訪する理由は明確にだった。
 この「何も無い町」「特に思い入れのない喫茶の時間」自分にとって、どれも絶対に必要なものではない。多分、彼女のことこそが唯一落とす事の出来ない条件、何よりの重大事なのである。
 緩やかなカーブに差し掛かりゆっくりと坂道を降りて行く。二三度振り向き喫茶店の方を見る。新し目の建売住宅の区画に阻まれているが、隙間から小さく見えている……それも、ある地点で地形に隠れ、完全に見えなくなる。コンクリートの舗装で覆われた崖は、坂の終わりまで続いていた。灰色の表面は暗緑の葛の蔓が這い伸びて、殆ど覆い尽くそうとするかのように。
「カーブに注意」の標示を通り越し、下の段の土地に足を降ろし歩くと、坂の上の事が幻になってしまったかのようだった。


  五

 次の休日迄の日々、特に変わりもなく仕事をしているものの、何かの際に頭に思い浮かぶのはあの坂道の上、喫茶店とそこにいる彼女だ。そのイメージが時折、目前の景色を押しのけて鮮明に僕の目に映る時もあった。
 座っていたり横になったり、何かの動作が途切れたときに……特に一服、煙草に火をつけて口にしたときに、自分があの窓辺の椅子にいるのに気づく時があった。
 灰皿に火の点いた煙草と湯気を昇らせるコーヒーのカップ、窓の外には自分が見た筈のない季節の町がある。それは自分にとって好奇心を感じるものでもあった。この感覚は、もしかすると誰かの頭に移り込んだ映像が放たれているのが、僕の脳に……テレビやラジオの放送のように受信されているのではないかと考えるようになった。詳しくは無いが、SFマンガに出てくる「テレパシー能力」が自分に現れたのではないかと本気で思えてきて、実験を思い立った。
 思いついたその夜、帰宅して自室で煙草を……「G」を一本吸った後、寝タバコにならないよう消し潰し、その煙の漂う中で、明かりを消して横になってみた。それから、なるべく手足に力をこめず全身から力を抜き目を閉じた。
「G」の火のついた一本を灰皿の縁のくぼみに挿してコーヒーカップを煽っている。店内は心なし明るく晴れた日にいるようだ。
 そして窓の方を向き、そこに見えるものを個別に確かめてみる。
 窓のある店の壁面の下から……地面の露出した場は駐車の用途にしているようで、簡単なロープで区切り三台ほど車を置けるようにしていたようだ。軽トラックとバイクが停めてある。
 それらを縁取るように屋外の雑貨、鉢や如雨露、ホースなどがまとめられ置かれて、他にプランターと一角に菜園らしい箇所が見られた。
 もう少し何か細かいものが見えるだろうか。
 駐車スペースの先には更地のように何も無い土地があり、それは坂道のカーブで区切られているのが予想できた。
 店内に目を戻し自分の前の小テーブルを見てみる。予め置かれている砂糖のポットや紙ナプキンを差してある籐の小さな籠、水の注がれたコップ。
 それらと共に濃い青を見せる切子硝子のコップが置かれて、注がれた水に白い切り花が挿されている。
 切子の模様は差し込んだ陽の光に青く煌めいてテーブルの表面に輝く影を落としている。
 そこから視線を逸らすとカウンターの方にマスターがいる。そしてカウンターの外側に彼女が見える。
 ……印象が違うことに気がついた。同一人物なのに違和感を感じる。しばらくして表情に気がついた。屈託の無い明るさに満ちた貌……。

 何かの音で自分の部屋に引き戻された。戸外での物音で意識が起きると、鈍い頭痛を感じた。起き上がり換気のため部屋のサッシを開け少しだけ外気を取り込んだ。
 ぽつりぽつり街灯の灯る屋外を顔を出して見た。H――市とはまるで違う、樹々の少なくどこまでも平たい街だ。あの街に住んでみたいのか?と自分に問いかけたことを覚えている。それに答えの出なかったことも。

 今からすると恥ずかしい限りだが、「テレパシー」で他人の頭の中を覗く力が不意に自分に目覚めてしまったのだろうかと考えた。試しに適当な当たりをつけて街中で座り行交う人々の精神を「受信」できるかを試したことがある。自分の身に何が起きているのか、起きていないのか、思いつきを確かめる必要があったからだが。
 無論、起こることなどなく、全身から意識が離れた時に眼裏に浮かぶのはH――市の途上、そして「M」の店内だった。つまり、不特定ではない、誰かの眼を通して……想い出を見ているという事なのではないか……と夜に思い当たり、そうして一度ぐっすり眠った後、ぱっちり目覚めてそれを思い出して何をバカなことを考えていたのかと自分を諌めた。


  六

 H――市と「M」を繰り返し訪ねる理由は、やはり彼女に対する興味だろうと昼間の自分は結論づけた。
 これまで見かけた女性を気に入ったり気になったり、過去には交際まで行ったこともあったが、その時に比べて今回の自分はどうなんだ?と怪訝に思う部分もあった。彼女の何が気になったのか、気に入ってるのかが未だに分からない。表情を思い出しても、他の娘よりも……よく言えば大人しく、辛く言えば陰気とも言えるのに、だ。重大なことに、自分は彼女についてのことをまるで知らないままなのだ。
「話しかけるのには……自然に話しかけるにはどうするのがいいか。喫茶店について世間話からはどうだろう、店についての話、マスターについての話、そもそももしかして家族なのかアルバイトなのか。名前を尋ねるのは。きちんと信頼関係のできてからだ……」
 次回の遠征に向けて、あれこれ組み立てていた気がする。

 その休日、少しだけ寄り道をした。町を訪ねるのに喫茶店だけだと心証的に悪くなりそうな気もして、ここに足繁く通う理由を作るためだった。しかし結局は際立った特徴のある事物が少なく、「M」に通う以外の理由は見つからなかった。
 仮に「休日にH――市に来るのには何かあるのですか?」と訊かれても答えはない。訊かれる可能性など殆どないだろうが、自分を得体の知れない人間と見られるのが後ろめたい気がしていた。
 公園や寺社の近くを回りつつ、結局坂の下まで来た。名前の知らない蔦の覆われた壁に沿ったゆるやかな傾斜を上り「M」の見える場所まで昇り切った。建て売り住宅の区画の向こうには更地がはさまり、更にその向こうには喫茶店と住宅がある。
 店内に入り奥の……やはり空いている窓際の席に座った。
 上着をとり椅子に掛け、そして一声かけて灰皿を一枚、自分で取りテーブルに置いた。どうぞと彼女が水のコップとメニューを置き、そこからホットコーヒーとサンドイッチを頼み……一本くわえて「G」の箱を傍に、そして火をつける……
 吸うとまた少し別の時間の光景が見える気がする。ふと前に見た時に見た店内の様子を思い出した。陽の差し込む明るい窓とテーブル、その上の眺め。切子硝子の描く深く青い影。
 地図を並べて照らし合わすように眼前のテーブルと比べる。……
 切子硝子のコップの切り花。花の季節?そうじゃない、切り花を挿した切子硝子のカップ、青い模様をあしらった、それが無い。
 花の季節ではないからだろうか。そんな事を考えた後、カウンターの方を見た。灰皿を取ってくる時に、背面の棚の隅に置かれている濃い青が眼の端に止まり、……それを改めて見ると間違いなく切り花を挿していたコップであるのが分かった。
 来店した時から確かに置いてある、突然出現したわけではない。それが何故テーブルの上の光景に出現するのだろう。やはり誰かがそれを見たのを自分が感じ取ったのか?
 運ばれたコーヒーを飲み「G」をもう一本吸うと、突然様々な光景が混線して頭を巡った。
 来るべきではなかった。ここは自分の場所じゃない。早く出なければならない。不意に自分自身の声でそんな言葉が立ち上ってきた。
 気持ちをなだめて水を口に含み傍に置いた文庫本を手に取り開いた。文字の上を眼が滑るばかりで内容が少しも頭に入らない。だが喫茶店の内を見る勇気がない。見て、何かを思い出すことで後戻りのできない重大な状況になると確信していたからだったと思う。

 だが状況は発生した。
「失礼します」
 冷水の入ったポットを持ちテーブルの傍に立った彼女が手を伸ばして中身の減ったコップを手に取った時だった。
 彼女の動きが完全に止まっていた。顔を見るとテーブルの一点を見つめて青冷めている。
 その時、自分は理解していた、彼女が何を見ているのか、そして次の瞬間、自動的に僕の口が開いて小さく彼女の名前を……いや……僕が知る筈のない、それどころか今は彼女以外に知る者の無い筈の呼び名を。
 店内に硝子が砕ける音がして、彼女の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
 自分は何が起こったか分からない。
 カウンター席に居た常連の男が素早く立ち上がり、彼女に駆け寄って、頭が床に落ちる前に背中を支えた。
「シノブちゃん?シノブちゃん?」
 内側からマスターも出てきて大丈夫?大丈夫?と言葉をかけた。彼女はガクガクと震えながら二人に抱え上げられてカウンターの奥、住居に続く駄居る戸口に運ばれた。意識があり受け答えは出来ている様子が聞こえた。
「ちょっと……目眩が」
「シノブちゃん、今日はもういいから、しばらく休んでおきなさい、後はわたしが」
 マスターの声がした。顔を出したマスターは僕に詫びた。
「すみません、すぐ片付けます」
 コップの破片をちりとりで片付け床の水を雑巾で拭いた。
「濡れてしまいましたか」
 言われてズボンの裾に水が飛び散っているのに気がついたが、水だから大丈夫ですと答え、彼女の運ばれていった方を見た。その時にカウンターに戻っていた男と眼が合った。これまで以上の険しい眼で睨まれているのに気がついた。
 何も言えなくなり、残ったコーヒーを一気に煽った後、手荷物をまとめ伝票を取った。 レジの清算はマスターがした。
「大丈夫ですか」
「あ、ええ、……何だか目眩がしたみたいで、すみません。休んだらきっと大丈夫ですから」
 背後の通用口の向こうに彼女はいる……だが気持ちがすっかり落ち込んでしまい……店を逃げるように出た。
 曇り空の下、坂に降りかけた所で突然背後で低く荒い声がした。
「あんた、どういうつもりだ……」
 見ると僕を追ってきた常連の男が、眼を吊り上げ、興奮で顔を赤くしながらこちらに近づいてきた。これまで睨まれたこともあったりで気分も害されていたこちらも、きつく返した。
「何なんですか、『あんた』って、知らない人間に向かって」
「とぼけるなよ、あんた、知っててわざとやってるんだろ」
「は?」
「『は?』、じゃねぇ、どういうつもりでやったんだ」
「だから何」
「マツウラくんの真似をシノブちゃんの前でして見せてるんだろ!折角どうにか店に出れるまでになったのに、わざわざマツウラくんの振りをして前でうろちょろするなんてどういうつもりだ!」

 その言葉でばらけていたものが頭の中で繋がった。
「忍」の恋人だった「松浦」、あの店で窓辺の席に座り「G」を吸いながらコーヒーを飲んで……テーブルには彼が土産に持ってきた青い切子硝子のコップに花を沿えて「専用席」であるかのようにしていた……そして或る時、丁度このカーブでバイクの運転中……

「そんなこと自分は考えてませんよ!言いがかりだ!」
 強く言って逃げるように男から離れ駅へ急いだ。振り向かずに。男はそれ以上追ってこなかった。
 駅まで来て呼吸を整え、煙草を吸おうと箱を出した。「G」……菫色の箱を見て思い返す。
 あの時まで彼女が傍に来ると……運ばれるコーヒーや軽食の場所を開けるのに、脇に寄せたついでに文庫本の下敷きにして隠れていたのだが。水を持ってきた時に「G」の箱を見て「彼」の記憶が立ち上り。
 二人以外には知らない筈の、彼女の呼び名を口にしたのは、僕じゃない「彼」の言葉だったのだ。
 そして……この「G」は僕の吸う煙草じゃない。中身のまだ残る「G」の箱を近くのゴミ箱にそのまま放り込んだ……


  そして〇

 それから僕はH――市を訪れたことはない。「M」がどうなっているかも知らない。昔の話なので多分もうやってはいないだろう。人々の顔ももう思い出せない。彼女の顔も。
 坂道の石垣を這いあがっていたあの蔓は僕があの町に降り立つまでは、幾度も「M」を……そこにいる彼女の元を目指していたんだろう。人の手で何度も刈られながら。
 そうしてH――市では今でも報われない愛の亡霊が風の中で彷徨っている。

 町は時間とともに変わる、僕の吸う煙草は「K」のままで変わらない。時間は僕を変えなかった。


(2020年(令和02)11月03日(火))

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