[掌編]月映えの栖
かよは夢の中で、玄関のベルが鳴ったのを聞いた。
□
うつらうつらしていた頭は、少し遅れてそれに応じた。
——お客様が呼び鈴のボタンを押した、ぼんやりと考えた。それがどのような意味なのか。
うっすらまぶたを開け、磨硝子を嵌めた高窓越しに入るのは間違いなく月光であるのを見た。戸外からは夜の風音が伝わり昼間の気配が微塵もない。夜半過ぎ……。
——誰だろう。この時間に訪問者のある筈がない。ならば、空耳にすぎない。誰かの悪戯でもなければ。
——ああ、それにしても目を開けてしまった。これで朝まで寝付けなくなる。考えるのを止めたいのに厭なことばかり頭に浮かぶのだ。
——夜に寝あぐねた時にはいつも辛い。現世に未練が無いわけでないが、「生きられる」と「生きなくてはならない」では随分違う。
——今や奥まった路地の一郭の借家住まい、身体のあちらこちらが壊れ掛けて痛む、独居老人。そう、さっきの音の主が閑散とした住まいを狙った強盗ならば。多寡の知れたお金などはあげてもいい。そのかわりに、いっそ安らかに自分を冥土へと送り込んで貰えないだろうか。だが強盗が呼び鈴を鳴らす筈などない。
隣に並んだ寝床が今はない。かよが夫に先立たれて、もう五年過ぎた。そこに夫が居た頃にはどうとも想わずにいた様々な事柄が、砂粒のように彼女の心に吹き込んで来る。二人の頃であれば、少なくとも孤独からは守られていて、痛みや不安があってもやり過ごすことが出来ていた。今やそのひとはいない。
——なんと心細いうつつだろう。
いずれはと考えていたが、出産の機会を逃してしまった。子供を持たなかった苦い誤算は連れ合いを亡くした後、容赦なく伸し掛かってきた。
寝付けぬ夜の淋しさ、恐ろしさをどれほど厭わしく想ったことだろう、あといくつ、同じ夜を過ごさなければならないのでしょうと、誰かに問いかけたい。特に横になり目を閉じると、諦めを無くし、果てない懊悩の繰り返しに流されてしまう。老いを受け入れてどれほどか経ったというのに、心は弱いままだ。
——さっきのはやはり空耳だったのかしら。
—— 勿論。
——外出が少なくなり、誰も話し相手がいない。だから勝手に耳が聞いてしまった、何もないのに。
月光が玲瓏と畳に注がれている。
——悪戯だとしても、お月様の仕業だったらねぇ……
と、かよは、ほんのり笑みを湛えたがすぐに孤独に胸を押さえられた。涙が零れてしまいそうだ。
もしかしたら、と想う。
——夫が私を訪なって来たのではないか。
途端に何故かその情景が鮮やかに目に浮かんだ。月下の冷え冷えした門前にあの人がいつでも穏やかだった優しい面立ちのあの人が、困ったような顔をして佇んでいる。
——他ならぬあの人が私を迎えに来ている。行かなくては。
もどかしく寝床を抜け廊下へ出る。三和土には、引き戸の格子を抜けた月の光が溜まっており、そこだけ薄明るい。
引き戸を開いて。
月明かりの白さの下、玄関から門までは掃き清められたように整然としている。冷たく延べられた夜気の中に、僅かの息遣いも聞こえてこない。
外にはやはり誰もいなかった。分かっていた筈なのに胸の内がからっぽになってしまった。
玄関からゆっくり、放心しながら廊下へ……床に戻ろうとした。襖を開けたままの部屋、月光の薄明かりに寝床が照らされている。かよは立ち止まった。布団に自身が寝ているのを見た。
あの時、呼び鈴の音に誘われ、彼女の魂はその身と乖離させられていたのだ。
□
……月の下の真夜中、確かに玄関のベルは鳴ったのだが、かよの身は遂に起きることがなかった。
2001年(平成13)12月05日(水)了
2021年(令和03)12月30日(木)投稿
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