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[掌編]Sea , Sea , Sea .(r) -嘘の五つの顔④-

 雲一つない空に埋め込まれた太陽のメダル。
 目の痛む眩しさに、手で払おうにも勿論届かない。
 もっとも届いても熱過ぎて指先を焦がしてしまうだろうし、天体同士を隔てる距離は重要だ。

 フレッドはプールサイドにいるが、水着じゃない。
 上下があさのスーツに白いカンカン帽、どこから見ても軽薄な洒落者しゃれものの出で立ちなのにその顔は破産したばかりの元資産家だ。
 解決不能なトラブルのために、フレッドは今、感情の深みに沈んでいる最中さなかだ。
 今はまだ実体のないメランコリアに取り憑かれ、物の見方全てに悲観がまとわりつき染み込んだ。
 こんな状態で、快活な声の飛び交いはしゃぐ客らのいるこの場所は、本来はいたたまれない筈なのだ。
 それでいて何でこのパラソル下の、カンバス地のチェアに身を預けているんだ、フレッド?

 立ちそびえる巨大なリゾートホテル、空の高みの一室に、彼一人が滞在する部屋がある。
 その中を映してみよう……ビューローの上には便箋びんせんが、便箋には彼の手書きの文章がつづられている。
 綴りは正確で文字の線も乱れてはいない。
 けれども、それらが宛先に届いて読まれたなら、百人全てがフレッドが遺書をしたためたのだ、ときっと断言する。
 病んだ絵筆で描いた画にはどうしても不吉の影が忍び入るものだが、彼の手紙は厭世の色合いが濃く浮かぶ季節になっている。
 フレッドは暫く、あの部屋に戻る気がない。
 書かずにはいられずに書きまくった手紙の書き損じが部屋いっぱいに詰まっているあの部屋を、自分の手荷物ごと放棄したい気持ちで一杯だ。
 だが、ここにいてプールにひしめく水着の人々の陽気な笑い声や、他のパラソルの下に居座る涼しげな顔の滞在客らの仕草を正目まさめには見られない。
 逃げ場がないようだったが、フレッドはとっておきのものを見つけた。
 ホテルの従業員が客に提供する、トロピカルな見た目のアルコール・ドリンクだった。
 行き過ぎるウェイターを呼び止め一杯を飲み始めたのだが、これの効果は絶大だった。
 それまでの曇っていた視界が開け、見る情景全ての明るい眺めをじかに受け入れることができた。

 今までどうかしてたのだろう、とフレッドはグラスを煽りながら晴れ晴れとした気持ちでリゾートの群集画を見ていた。
 四六時中、泣き出しそうな気持ちでいたのが、この世界の明るさを思い知らせる偉大な酒の力で救われた。
 自然と笑みが口元に零れ、見る者に対して笑顔を振りまいていられた。
 ところが、目盛が急速に下がったのか、楽観的な気分は薄れ、再びいたたまれない悲観が首をもたげた。
 見るもの全て、変化してはいないのに、フレッドの胸は再び辛い気持ちに満たされた。
 耐えられなくなり彼は通りすがりのウェイターから更に一杯を貰った。
 飲み始めると再び感情が晴れた……事態は明白だ。
 酒の力無しにはまともでいられない。
 絶えず飲んで燃料を充填しなければ、もう自分という人間は動けない……。
 何杯かグラスを干した後、プールサイドを目で見渡し、キラキラと輝く銀色のトレイを持つ背高のウェイターを呼び止めた。
 だが、相手はフレッドの様子を見るとトレーのドリンクを渡してくれなかった。
「お客様」褐色の顔の青年は慇懃いんぎんにフレッドに話しかけた。「もうだいぶお召しになられたのでそろそろ落着かれた方がよろしいでしょう。」
「ああ、ご丁寧に……心配なく、飲んでいる間は万事上手くいくのですよ。こう見えても心配はいりません」
 でも今の君を見て誰が安心できるものか、フレッド?
 目が赤くなって潤んでいるが、酒の酔いばかりでなく子どものような泣きべそのせいなのだ。
 フレッドの息がかなり酒の濃さに染まっているのに気付き、ウェイターの青年は声を落として話した。
「お客様、何かございましたか」
「ええ、たいした事じゃないんです。ただ」と言いかけて周りを見て「悲しいんです」
「人生は色々ありますからね」
「僕にではなくですね、ここにいる皆全てが悲しいのです」
 青年は首を傾げたが、まぁ待て、フレッドは泥酔状態だ。
「つまりこの先に人生の色々が無くなってしまうんです」
旦那ボス」青年は他の客に聞かれない程度に声を落としながら、砕けた口調で応じた。「このリゾートでそんな世界の終わりみたいな話を信じられると思いますか」
 酒が切れると、見えてくるのは世界の傷ましい姿だ。
「だから余計になんですよ」
「お仕事で何かあったんですか、旦那ボス
「仕事でね、知ってしまったんですよ。今日中に世界はとんでもないことになってしまう。我が国全て、このリゾートも勿論。」
「とんでもない話ですね、旦那ボス。一体何の仕事なんです」
「国家の情報関係の仕事なんですよ。我が国に対し脅威となる国の動向をずっと調べてましてね。キナ臭い近頃の国際情勢は君もニュースで知ってるだろう。だが、実際はもっと状況は悪くてね。既に我が国全域に対する弾道ミサイル攻撃はこれから……どころか既に始まっているんです。」
「それは恐ろしい……でも旦那ボス、こんなに雲一つない晴れじゃないですか」
「既に燃料の充填もなされ照準も定まっているんです。今日中に具体的な発射が行われるんですよ」
「我が国の監視衛星網で、その兆しは確認されてたりするんじゃないですか、もしも本当なら」
「上層部は既に発射の兆候の情報自体は把握してる。ただどうしたらいいのか分からない。あらん限りの弾道ミサイルが全域に向けられているのを見て、むしろ「本気ではないだろう」と思い込んでるんです。現実から目をそむけて」
「重大情報じゃないですか。こんな場所でお酒を飲んでいる暇などないでしょう」
「酒を飲むくらいしか、もう出来る事は無いんです。既に発射プロセスは始まって我が国に弾道ミサイルが着弾するのは時間の問題なんです」
「お客様、とても重要なお話をお聴かせいただいてありがとうございます。お酒の方は一旦これでおしまいになりますので……それから水際みずぎわには絶対に近づかないでくださいね。有能な従業員はおりますが、できればお早目にお部屋に戻られた方がよろしいかと思います」
「信じてないんだね」
 ウェイターは会釈だけしてフレッドに背を向けて去った。
 その姿を目で追っていると、離れた所にいたプールの監視員の男に声をかけてフレッドの方を示していた。
 泥酔したフレッドが、プールに近づいて飛び込まないよう見張るようにと指示しているようだぞ。
 誤解されたようだがフレッド、青年のこの心遣こころづかいには感謝した方が良い。

 酒が終わった、このホテルに君の飲めるものはもう一滴も無い。
 今わのきわに何故こんな意地悪が許されるものなのか。
 これは罰か、とフレッドは思った。
 たとえ無駄になろうと、ぎりぎりまでこの情報を通じて僅かでも人が救われるように走り回るべきだった、それが自分の使命だったのに、と。
 着弾すれば地上全てが焼け尽くされるだろう……かろうじて地下にいる人間が最初の衝撃を乗り越えられるだろうが、その先を考えるとそれが幸運なのかが分からない。

 再び沈んだ心のフレッドは思った。
 これが全て嘘ならどれだけ良いか。
 自分がどうしようもないただの酔っぱらいで、情報機関の一員などではなく、世界の危機の情報全てがただの妄想であったのなら。
 すると彼には次第にそちらの方があるべき姿に思えてきた。
 俺は酒欲しさに適当な法螺話ほらばなしを聞かせただけだ、と。
 一体、酔っていないのにそんなことを思い込んでいるのはつまり、そういう妄想に取り付かれていたという事なんだな、とフレッドは思った。
 ホテルの部屋に今散らかっている書き損じの文書に意味は無く、あれは機密情報の暗号文でも何でもないのだ。
 だから一切の連絡を断って、消息をくらました情報員などどこにもいないんだ、フレッド。

 しかしおかしいな……チェアーから立ち上がりフレッドは空を見る。
 同様に一人ずつリゾートの客や従業員は空を見上げて気がつき始めた。
 皆、片手で目の上にひさしを作りながら空を見ている。
 青い空に白い線を引きながら海の向こうから伸びて来るものは……
 フレッドは一人視線を外してホテルの敷地の端まで歩いた。
 そして断崖の方に近づき広がる海を前にした……ホテルの方で人々の声は、ざわめきから次第に悲鳴の色を帯びてきた。
 彼はためらわず、断崖の縁から遥か下方の海面目指してジャンプした!!

 海水の中に落ちた後、頭上で水面が光り、それから凄まじい振動が水を伝って来て、粉々になった様々の物が落ちてきた。

 しばらく、濁った水の中にじっとして、それから海中で目を開けた。
 バラバラの破片が水中を漂っている。
 濁りの晴れた水中でキラキラしているものが見えたが、ホテルのウェイターの持っていた銀のトレーが沈んでいくところだった。
 とんでもないことになったな、とフレッドは思った。
 しかしもう酒が無いのに落ち込んだ気分が消えていた。
 自分は酔っていない、酔って水に落ちて溺れてるわけじゃない……
 白いスーツの彼はそのまま白い魚になって泳いでいたが、鮮やかな、トロピカルの色彩豊かな魚の群れと行き会った。
 何とも楽しくなって魚群を追って泳いだ。
 魚の姿のフレッドはどこまでも続く海の青の中で白くきらめき……。

初出:2023年(令和05)03月31日(金)
note [掌編]Sea , Sea , Sea .

改稿:2023年(令和05)09月08日(金)

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