見出し画像

[短編]La Chatte noire -或いは Persephone-


* 

 ……この出来事の結末は既に付いている。そして多分、決着を付けることのできる道筋を僕は知っている。この指先で……その道筋を開きさえすれば、そこからきっと全てこの地上の秩序に還すことができるのだ。
 でも今の自分には、それが正しいことなのかが分からない。
 いわば、影の染み込んだこの足の下の、地界の秩序が完成しただろう今、それを掘り返すことが正しいのか、僕には確信が無い。

1 

 去年に……まず安土からメールが入った。 大学時代の友人で、とある事情で社会に出てからの交流はほとんど途絶え、電話番号もいつ変えたものなのか繋がらないようになってたが、そのままになっていたメールアドレスだけは生きていたようだった。
「久しぶり 変わりはないか」
 悪びれもしない軽い挨拶の後
「……この度、引越しをした。東京だが緑の多い田舎で過疎が進んだおかげなのか、増えてきたらしい空き家のひとつをリーズナブルに購入できる機会だった。それで決心して……」云々。
 新居で心機一転というようなことが書き連ねてあり、落ち着いたから遊びに来いよ、と。つまりはそんな内容だった。
「一応、まだ引越し先は誰にも知らせていない。……お披露目はもう少し先で。絶対他のものには知らせないでください」と意味深な結びがあったが、その時はさほど気にしなかった。
 こちらも軽く近況を連ねた返信を送り、近く顔を見たいもんだ、こちらも顔を出すよと投げかけると、程なく了解のメールが折り返されてきた。約束をとりつけた二週間ほど後、再会することになった。

 メールで指定された——駅で降り、無人の駅舎前の広場の端で立っていると、グレーの真新しい車が街道からぐるりと入ってきた。
「久しぶり、悪かったな、今日は」横付けしてウインドウを降ろし車内から安土が声をかけてくる。
「おい、新しい車だな、いいじゃないか」
「レンタカーだよ、夕方頃には返却しなきゃならない……乗れよ」
 助手席に乗り改めて挨拶を交わすと、車は静かに街道に滑り出た。
「こっちは久しぶりに来たけれど……ほんとに東京か」
「別天地だろう」安土はへらへらと笑って言った。
 卒業してしばらくの間以降はまったく合わなくなり、連絡先だけは持ってはいたが実際の顔を合わせての対面はなかった、久しぶりの彼の顔には……どれほどの笑顔を浮かべても……翳りを感じた。
 途中、街道沿いの商店で軽く買い物に寄った後、彼の住まいに向かった。
 山の作る斜面の中、緑の山肌の間にできた段の街、細長く伸びる水彩画の風景の眺めに感嘆しながら、半ばオートキャンプじみた道行が何より贅沢に感じられた。
「しかし思い切ったね、通勤とか大変じゃないのか」
「ああ、後で話すけど、会社はやめた。まぁそのタイミングでもあったんだ、今回のは」
「それは……そうなのか」
 車中で話題が広がる前に、「あそこだ」と安土が言った。
 道路脇に建つこじんまりとした一軒家、その背後にはわずかな庭があり、その先は下方へとなだらかな段丘へと降り台地になっていた。
 コンクリの土台で作られた駐車スペースにゆっくりと車を入れて、二人で降りた。
 降り立って、月並みな感想……普段住む自分のいる街よりも、空気が濃いような気がした。
 風雪に晒されたろう土台部分はともかく、家屋の外観は「お色直し」がされて、新しく住むのには十分に見える。玄関の開き戸を開錠した安土に招かれ屋内に入った。「他人の家」に上がったばかりに気づく「家屋の匂い」もそれほど強くない。居間に通されてひとまず落ち着くことにした。
 これを、と持参したウイスキーを渡すと、安土は気が利く、と笑って受け取り「今日は運転があるから開けられない、お前は飲むか」
「こちらも明日、用事あるんで夕方にはおいとまするんで」と、結局は二人とも酒の入らない饗応になった。
 南向きの縁側から小さな庭があり、園芸の名残が残されている。木製の柵の先は段丘に降りていく斜面で、遠くには樹林の乗っかった山が見える。
「前の住人の土いじりの道具などは処分してもらったけれど、庭木とかは引き継がせてもらった。あの木は分かる?……柘榴らしい。珍しいだろ」
 部屋には引越しでの荷物の梱包が開けられず積み上げられたままになっていた。
「この土地は落ち着くよ」
 バカな話をかわしているうちに次第に気持ちの凝りも解けてきたのか顔も少し明るくなった。
「前の住人は……年寄りの一人暮らしだったのが、身体を壊してから自分の子供のいる町の方で暮らすことになったってことで、ここが空いた、と。……その人もここは中古で買って、その時に改修改築とか既にされていたのをが今回はほぼそのままでな。少なくとももう一つ前に持ち主がいたから俺はここで三代目なんだ」
「曰く付きじゃないよな」
「念入りに調べて事故物件じゃあないのは確認したよ。付いてないさ。でもな、ちょっと面白いものがあった」
 興が乗ったように立ち上がって廊下に出、奥の別の部屋へと通された。そこも物が無く隅に荷物の箱が寄せられているだけで、すっきりとした四畳半の部屋だった。
「この畳だけど、ちょっと歩いてみな」
 言われるまま歩くと足裏で違和感がある。
「下がどうかなってるのか」
「ちょっと手伝え」部屋の箱の上に転がしてあった軍手を手に付けて、マイナスドライバーを掴んだ。
 畳同士の隙間にドライバーの先を差し込み、梃子にして縁を持ち上げ、一枚の畳を上げると、その下に新し目の新聞紙が敷かれており、それを除けると板張りが姿を見せた。
「新しめの板だな」
「前の住人のリフォームで手を入れてた箇所らしいんだけど」
 板は置かれているだけで、一枚づつ取り外すと床下の地面が見えた。……そこにやや重みのありそうな鉄板があった。部屋を出て戻って来た安土はサンダルを2組を持ってきて、外履きで地面に降りた。鉄板には簡単な取っ手がつけられており、彼はそれを掴んで引き上げた。鉄板の下にはコンクリートの枠があり、穴が開いていた。
「地下室か」
「先先代の住人が使ってたみたいだけれども……」コンクリでできた階段が下に伸びているが、部屋の電燈の下で見る限り、部屋と言えるほどの奥行きや広がりはなさそうだ。
「地下室というよりも、収納スペースか」
「そんなところかな。何を納めていたんだか」
「密造酒……どぶろくとか?」
「不動産屋もよく分からなかったみたいだった。活用しようにも中途半端な奥行きで、土ぼこりも家に入り込んだりするだろうからと、代替わりの時に塞いだようだ」
「じゃあ、密造酒でも造りますか?これからここでさ」
「面倒なこと言うなよ」
「柘榴の実で果実酒でも仕込めばいいんじゃないか」
 鉄板と木の板だけを戻して塞ぎ、二人とも手を洗って居間に戻った。
 夕方までとりとめのない話をし、さて、と二人で立ち上がり車に乗った。
 返却先のレンタカーの支店のある町まで走り、その途上にある駅で降ろしてもらうことにした。馴染みのない町だが乗り換え駅の接続は悪くない。
「そう言えば退職した話は……ま、今度でいいか」車中で思い出したように安土が言う。
「長いのかい?別に話せる時でいいよ」
 僕がまた今度、と言いドアを閉める間際、安土はつけ加えた。
「くどいかもしれないけれど」柔らかい声音だがはっきりと釘を刺してきた。「まだ暫く俺の引越しのことは人には言わないでくれ。ちょっと色々あってさ」

 安土の新居への訪問から二ヶ月ほど経ち、わずかに季節も変わった。その間、特に連絡を取り合ったりなどはなかった。一度、かれの家の近くの川岸で釣りでもできないものかと思い付き、軽く質問のメッセージを送った。
「いいな、ちょっと調べとく」
そんな回答があり、それもそのままになって、どちらとも気にすることもなく、保留になっていた。
 互いに自分の生活をしていたわけだが、ほどなく思わぬ方向から、彼の「事情」を知らされることになった。

 休日、自室にいるとスマホに知らない番号からの着信があった。切れてから確認すると、伝言の音声が残されている。再生してみた。

『突然失礼します、大学で同じ専攻だったハツカです。実家のご家族の方からこの連絡先を教えていただきました。どうしてもお尋ねしたいことがありまして、お時間のある時にこちらの番号に連絡をしていただきたいのですが。どうかよろしくお願いします』

 履歴で相手の番号はわかる。親しくはなかったが顔と苗字……「初鹿」は覚えてはいる。
「宗教かマルチの勧誘かね……うん、ああ、これは場合によっては、うん」
そこはかとなく期待も秘めながら、折り返しの連絡をすることにした。
『どうもすみませんでした、突然に』本当に申し訳なさそうな声で『実は……安土さんとお友達でしたよね』
「……大学の時は……そうでしたね」思わぬ名前が出て少し警戒感が働き、ぼかして応じた。
『安土さんのご連絡先、ご存知じゃありませんか』
「いえ……電話とか知ってる昔の番号は通じなくなってますね、そういえば。何か連絡を取りたいこととかあるんでしょうか」
『連絡というか……覚えてらっしゃいますか、私、佐久さんと親しかったんです』
 言われてさっと胸の内が凍りついた。その名前で「もしかしたら」という事が一気に頭に思い浮かんで広がった。
「佐久さん、ですか」
『安土さんたちからすると、あまり良い印象は無いのかもしれませんが、私にとっては友人なので』
「正直……思い出したくない名前ですね」
『なんとなく思い当たります……分かる気がするのですが……実は彼女の消息が今、分からなくなっているんです。アパートにも戻ってなくて、ご両親からも私の所に心当たりを聞かれて』
「……私も知りませんし、安土は」言いかけてあの時に散々念押しされたことに思い当たった。「卒業してから、連絡先とか知らないままなので」
『そうでしたか。すみませんでした。それで、厚かましいのは承知なのですが、もし何か心当たりとかあったら、私のこの番号に連絡をいただけないでしょうか。どうかお願いします』
「わかりました」

 通話を終えて、まず実家の親に「ああいうのはまず、こちらの連絡先は伝えずに相手の名前と連絡先を聞き取ってこちらに教えるようにしやがれ」と苦言を呈したのだが「いやお前も良い加減独り身でせっかく女性からの連絡が来たのだから少し考えてみてはどうなのか」という訳のわからない苦言を返された。金輪際、やめてくれとは伝えて終えたのだが。 しかし……
 安土と佐久の間にあった事は思い出さないようにして来た。それがこういう形で名前をつきつけられるとは思いもしなかった。

 大学時代の安土は調子の良い優男で、女性との交際も多かった。自分の第一印象では「女性にだらしないやつ」と思ったものの、根はいいやつ、悪人では無いのと、何故か意気投合して友人として交流できていた。
 基本、交際相手を粗末にあつかったりせず、大切にしているせいか別れるにしてもトラブルや泥沼のようになる事は無いようだった。そして別れてもあっさりとした感じ、元の彼女と顔を合わせても普通にやり取りをしていたりと、傍から見れば拍子抜けしてバカらしくなるほどで……とにかく悪意もなく裏表もない男、というのが友人としての評価ではあった。
 もともと安土から女性にアプローチするよりも、女性側から安土に声をかけてというのが大抵のパターンで、つまりは彼はモテていたわけである。
 佐久は……佐久については、他の女子学生に比べ地味で目立つこともなく、人と関わろうとすることもなく学内で見かけても特に印象にには残らない女性だった。顔立ちは美人であるので、彼女に関心を持つような男子学生も多かったようだが、ほとんど相手にされることもなく、男子にしても実際に対面するとどこか調子の合わない風変わりさに気圧され、結局は遠巻きにされているようだった。
 恋愛に興味がない……そういう類の人物と勝手に思い込んでいたので、ある時佐久の方から安土に声をかけて来たことに驚いた。
 安土も気持ちよく応答し、佐久の方から交際の申し込みのようなものがなされて二人の付き合いが始まったようだった。
 友人ながら「なんでコイツばかりが」と思わないでもなかったが、まあ結構な事ですね、ということにしておいた。
 佐久は無口でおとなしく、華奢で線も細く、それまで安土が交際していた女性とは異なるタイプだった。付き合う時には真面目に……安土は「彼氏」としてよくやっていただろうと思う。
 雲行きが怪しくなったのは、それから一ヶ月くらい過ぎた頃か、学内で釈然としない顔の安土を見た。
「こういうのは初めてだから分からない、というか」眉根を寄せて「佐久ちゃんの事だけどさ、これまでの女の子とは、なんか違うんだ。やり取りがここまで成立しないのは」
 これまで交際相手と喧嘩したりもしたり、問題のある性格で最終的に別れたりというのはあったらしいが、佐久に限っては「どうしたらいいのか分からない」と言う。
 惚気話かよ、と聴き始めは思っていたのが、思うより深刻な表情に姿勢を正し話を聴くことにした。
「少なくとも」安土は言う「交際する間、例えば相手とのやり取りというのがあるだろ。相手に何かしたりされたり。話しかけたりかけられたり。どうも佐久ちゃんは当てはまらない……話しかけても返事がなかったり、でも無視をしてるわけでもなく見返すだけだったり。そういう、コミュニケーションが、ちょっとエキセントリックな娘かと思えば、オレ以外の……女子の友人の間では普通にやり取りをしていたりとか」
 付き合ったり別れたりの回数はあるものの、基本、交際自体は真面目に……むしろ真面目すぎるので、マッチしないと判断したら話し合って最終的に別れを同意しあうのが常ではあった。
 この時は……安土としてはアドバイスを求めるというよりも、この時点で既に別れることを決意していて、それを僕に話したのは罪悪感を抱え込んでのやむにやまれぬ気持ちだったのだろう、と思う。僕からは「合わなかったのは仕方のない事、話し合って納得の上で」という月並みな答えをしたように覚えている。
 ……後日、学内でベンチで座ってた僕を見つけると安土は拍子抜けしたような顔でやってきて、「話し合いというほどの手間もなく、向こうも別かれることに同意した」と呆けたような言った。揉めたりするようなことがなかったのは何よりで、「まあお互いが納得したのならいいじゃないか」と言ったものの、どこか釈然としないものが残っていた。
 実際、そこからが「始まり」だった。

 佐久は学内で安土のいる所にふいと現れて、教室など、安土が座った座席の少し間をおいた斜め後ろ付近に、まるで彼を見張るかのように座る。安土も「憎みあってるわけではないし」と当初は挨拶や声をかけたりしたが、返事を返さず知らぬふりをする。「まあそれなら」と声をかけることもなくなり、相手を空気のように思おうとしたが、付きまとうようでいてそれ以上干渉してこない距離にいつも現れるようになった。
 二人が「別れて」から数ヶ月頃……別の女子からの交際が申し込まれ安土は再び相手との付き合いに耽るようになった。「真面目な」交際が続く最中、僕のところに彼がやってきた。
「……わけがわからない」これまで見せたことのないような翳りのある顔で僕に言う「××とデートしてたんだよ。普通に。それが、佐久の奴が……つけてきたんだ」
「『誰この人』とか言ってきて空気が凍って。『いや、ちゃんと話し合って……もうこれでお終いだよねって納得してお付き合いも終わったよね?』って……でもまるでそんな事が無かったかのように。なんか……とは変な空気になっちゃって」
その時の彼女……名前は失念した……とそれをきっかけに揉めてしまったようで、彼の落ち込みようはひどかった。少なくともこれまで相手を傷つけたり憎まれたり嫌われたり、そういうのはほぼ無かったはずで、完全に顔を背け合うような間柄になったのを悲しんでいた。
「佐久さんに何か気持ちの変化でもあったのかも」
「本当に勘弁してほしいよ……どういうつもりなのか、確かめてみるよ」
 安土は自分の感情を抑えて佐久に話を聞こうとしたようだったが、そういう素ぶりで近づこうとすると目を合わさずに離れ、姿を消してしまい話をすることができず、彼は途方に暮れていた。
 ほどなく、落ち着きを取り戻せたのか揉めていた彼女と「よりを戻した」という話を聞いた。そちらの相手と丁寧に話し合いをして「誤解が解けた」と。

 学内の、やや淀んだカフェテリアだったと思う。ベンディングマシンから注がれた熱いコーヒーの紙コップを手に持ち、落ち着く席を探していた時に、安土の姿を見つけその対面に座ることにした。気軽にひと声をかけてその顔を見、様子のおかしさに気がついた。
「安土……どうした」
 聴こえているだろうに返事がなく、顔つきがおかしくなっている。
「またアイツのせいだ」
「アイツ?」
「××と仲直りできたと思った……そしたら、またあいつだ」
「……佐久さんが?」
 返事はない。
 が、再度、事が起こった……僕は安土の背後のテーブルに座った人影に気がついた。タイミングを合わせたかのように……
 安土が僕の視線に気づき振り向いて相手を確かめた。安土がゆらりと立ち上がる。
「いけない」と思い、僕も急いで立ち上がり回り込んで彼の前に立った。安土の顔が怒りで凄惨な表情になっていた……その時まで僕が一度も見たことのないような。
「おい、どういうことなんだよ」間に入った僕の顔も見ず、僕の肩越しに座っている佐久を睨みつけ、声を押し殺しつつ……「何がしたいんだ?話があるなら聴くって言ってるだろ」
 異様な雰囲気に、カフェテリア内の人々の声が止み、おそらくは視線が僕ら三人に集まっている気配がした。僕はただこの猛獣が飛びかかろうとする寸前なのを、せき止めるのが精一杯だった。
「安土、だめだ、これはだめだ」爆発しそうな彼の肩を掴み、抑えながら言った。
「話し合っただろ?あれでお互い納得したんじゃなかったのかよ」こちらの言葉が届いているのかどうか、安土は佐久だけを見ていた。彼の肩を手で抑えながら、振り返り佐久の方を見た。
 座ったまま、逃げるでもなく不思議そうにじっと安土の顔を見ている。
「何か言えよ!」突然大声で怒鳴り、同時に片足で隣にあった椅子を蹴り飛ばして床に転がした。
『おい、女の子に怒鳴ってんじゃねえよ』屋内で誰とも知れない男子学生の声が一つあったが、また静まった。
「安土、今日は帰れ。な、頭を冷やして。落ち着いて、また別の日に」
 殴りかかろうとするかのような彼の肩を抑えてとどめ、彼のバッグを手に取りカフェテリアの入り口まで彼の身体を押して行った。自分でそちらに向い歩き始めた彼の肩にバッグをかけてやり、「帰って休むんだ、いいな」と声をかけたが、安土は振り返りもせずに外へと出て行った。背中を見送った後、カフェテリア内に一度戻り、その場の人々の視線を受けつつ蹴り倒された椅子を立てて戻してから、その場の人々に詫びるように一礼した。人々が会話を始め……普段の空気に戻った。
 佐久を見ると、黙って入り口の方に視線を向けている。
「あんな怒り方をする奴じゃないんだ。一体どうしてなんですか」
 声をかけたが、やはり返事はない。ため息を一つついて僕は自分のバッグと冷めたコーヒーを手に持ち、この場から去ることにして自分も入り口に向かった。
 扉を開けて外気を深く吸い込み、一呼吸してから歩き出そうとした時に……思いもよらぬ耳元で低い声がした。

「余計なことするな」

 止まって振り向くと、いつのまにか背後に来ていた佐久が、僕を気にもとめずに、面識のない他人であるかのように、通り過ぎて行った。一瞬、自分が何をされたのか理解できなかった。周囲に他に人はいない……あれが彼女の声だと理解した時には、もうその後ろ姿はキャンパスの建物の陰を回り込んでみえなくなっていた。

 ……友人からすれば気のいい奴だった安土も、あまねく人気者というわけではなく、艶福家であったことから一部の同性から反感を持たれていた。が、皆の見てる場で女子学生を怒鳴りつけていた場面が話題になり、一様に評判が芳しくなくなった。だから、というわけでもないのだろうが、その日以降彼はほとんど大学に姿を見せなくなった。
 電話も繋がらなくなり、彼の下宿も留守がちになり、ある時訪れると完全に引き払われて空室になっていた。僕は僕で彼のことが気になりつつも自身のことをやり修めなければならず、それ以上どうしようもなくなった。
 安土の話を誰もしなくなった頃、学内で久しぶりに顔を見かけた。
「安土、久しぶりだ、どうしてた」
「まあな」彼の顔からは、昔は満ち溢れていた快活さが全て抜け落ち、陰鬱な容貌を見せた抜け殻になっていた。
「卒業だけはしておくよ……まあそこはね、いずれ落ち着いたらこっちから連絡する」そんな話だけして引き止める間も無くキャンパスから出て行った。

 しばらく後、当時遊んだりしていた同じ大学の友人の一人が、僕の下宿に遊びに来た時に、部屋に入った後でこちらを見て妙な顔つきをした。
「なあ、佐久って知ってるよな」
「え?」
「いや、多分……あの人だと思うんだけど。住んでるところ近くなの?」
「知らないけれど」
「さっきここに歩いてきた時、このアパートの見えるところによく似た女がいてさ。……確か安土と付き合ってて何かあったんじゃなかったっけ」
このアパートを見張っている佐久の姿が思い浮かんだ。彼女は居処の掴めない安土の手がかりを探しているんじゃないか。窓の近くに行くのがためらわれた。

 ……回想の窓辺から現在の自室に帰還して頭を動かした。
 もし今でも……佐久が安土を探して付きまとっているのだとしたら。新居を周知させない事を念押ししていたことと思い合わせ、更に仕事を辞めたということにも繋がっているように思えてきた。

 その日……私用で使うパソコン周りのサプライ用品を探しに大型店のある街に足を伸ばした。
 様々な店舗をハシゴしつつ、目について気になったものを購入してみたりなど、一通り買い物を済まし終えた後、すっかりと足が疲れ果て、帰りの電車に乗る前にどこかで一息入れようかと喫茶店を探した。賑わった繁華街の表通りから枝分かれした道路に入ると、年を経たビルと昔からそこで生活をしていただろう住宅の混在した通りが出現した。ややくたびれてはいるが、生活感のある光景がそこにあり、並んだ家々の中に様々の店が散見される。
 小さな喫茶店を見つけてそこで落ち着くことにした……まだ古びていない外装から、ここでは新し目の店であるのがわかる。
『シャノワール』という、聞いたことのある名前だったが、チェーン店ではなく自営の店のようだ。空いた店内に入り、奥の一角に座りアイスコーヒーを頼んだ。
 メニューを戻す前に、表紙にあしらわれた店名の”Chat noir”の文字を見た。フランス語。日本語ならば普通に「黒猫」だ。
 座席に背中を沈めながら、歩き回った疲労感にまとわりつかれていた。冷たいグラスのコーヒーを口にしつつ、ぼんやりと頭の中で様々なものが漂い昇ってくるのに任せた。
 ……メニューの表紙の、西洋画の素描で荒く描かれた黒猫が、二次元を抜け出して自分の足元まで降り立ち、店の壁の中に吸い込まれて消えて行くのを夢想した。
 ああ、そうだ。『黒猫』と言えば、古いアメリカの小説。
 酒で荒れた男が自分の女房を手にかけてしまい、その遺体を隠すために自分の家の地下室に……
 確か黒い猫はプルートーという冥界の神の名前、片目が潰れてて、胸のあたりの毛並みの模様に絞首刑台の姿が浮き上がり……
 突然、頭の中で軋みながらブレーキがかかった。胸の内がざわついてきた。
 エドガー・アラン・ポオの小説「黒猫」で……地下室の窪みに遺体を納めて、それを覆い隠すために煉瓦を積み上げていた。
 だが僕の頭に浮かんだ情景は、あの畳の下の、短い階段の先にある古いコンクリートの空間だった。
 そこに安土が……無残なまでの顔つきの彼が女の身体をゆっくりと降ろし横たえるのが……音のない古い映画一場面のようにありありと視えた。
 どういうわけか……何故かそれが実際にあった出来事であるかのように思えて仕方なくなり、これまで見聞きしたものがそれを裏付けるように縁取りになって、絵画が出現した。
 あの家に……居所を探し当てた佐久が既にやって来ていて……そうして激昂した安土が彼女を手にかけて……あの家屋の中で骸になった佐久を見下ろしている安土の姿が浮かび上がった。
 彼は……怒りが消えて自分自身のやってしまった行為に恐怖して、そうして、足元の死体をどうするのか、どうしたらいいのかを考えている。
 どこかに遺棄しにゆくか……だが運び出そうとすると……近所の住宅の隣人の目に止まらないとも限らない。人の少ないこの地域で下手な動きはできない。
 機会を待つんだ。それまでの隠し場所は……不動産屋と、前の住人と、友人ひとりだけにしか知られていないだろう、あの古い地下室に。
 そう、機会が訪れるまで。

……さほど珍しくもない食物を手土産に、土曜日の午後、彼の家を訪れた。迎えた彼の顔は憔悴しきっており、どうしたのか訊いても「いや別に……」と流された。
「田舎ってのは」安土が苦々しく言う。「……やはり面倒臭いよな。鬱陶しいというか、プライバシーってのを理解できていないというか」そんな愚痴を言い始め一通り毒を吐き始めた。
 新しい住人を歓迎したいらしい元からの住人があれこれと世話を焼いてくるのはありがたいが、高齢の者などは、玄関でチャイムを鳴らしても居留守で出ない時など、わざわざ庭などから回り込み不在を確認しにきて、などと。
 人間関係の歪みから避難してたどり着いたこの新天地にも、やはり人間関係はある。目論見違いはやむを得ない。
 とりとめなく話を繋ぎながら、こちらもどこか上の空で会話も弾まない。しばらく、どちらも黙り込んだ間が空いた後、意を決して話を切り出した。
「初鹿って覚えてるかい。大学の時の」
「……名前は何となく知ってるかな。言われれば覚えてはいる。「ハツシカ」って書いて「ハツカ」って読みの……それだけだな」
「こないだ僕のところに電話があった。突然だけどさ」
「へえ」
「それで彼女が友達……佐久の友達だって」
安土の表情が変わった。目元が険しくなって。
「……何?」
「彼女、佐久の行方が分からないって、学生時代の知人に連絡を取りまくっているみたいなんだ。それでこちらにも」
「……ここのことを話した?」
「いや、連絡先は知らないって言っておいた」
 安土の顔つきが僅かに和らいだ。
「ああ、それでいいよ。……そうなんだ、俺が会社を辞めなくちゃならなくなって、こんなところにいるのも……アイツのせいなんだ」
 苦しそうな悔しそうな顔で自ら話し始めた。
「勤め先で普通に仕事していた。仕事も人間関係も、順調に回ってた。何年もかけてそういうものを築いてきたんだ。それがさ。職場の同僚と飲んでいるところに、店にあいつがいて……まるで俺がアイツに酷いことをしたあげく捨てたみたいな、言いがかりをつけてきて。あまりに唐突で非常識だから、初めは同僚たちも向こうがおかしいと分かってくれてたんだ。普通なら分かるのが当たり前だろ?突然あんなことを皆の前で言い出すなんてさ。それなのにその日から会社の周りにアイツが現れ始めて。どうしてか会社の方でも向こうの言い分が広まり始めて俺の方がひどいことをしてたんじゃないかとか……こんな状況で仕事とかやれるわけがなくなってさ。本当に普通ならわかるだろう?向こうがどうかしてるんだよ、それなのに」
 学生時代の一件を思いあわせた。細かい事情を知らない第三者は、無言でいた佐久よりも、人格が変わったように怒鳴っていた安土の方が悪いだろう、と決めつけるようになって、彼は孤立させられていった。
「それで会社を辞めた、と」
「平気でいられるかよ」我慢していた感情が堰を切り地表を泥流に浸してゆく、彼は憎しみを吐き出し放った。
「職場での行き帰りの途中に……気がつくと離れたところから俺を見ている。そしたらさ、だんだんまるで関係のない人間までもアイツに似た背格好ってだけでそう見えて来て。もう普通に仕事できるような精神状態じゃなくなってきた。……職場の仲間ともなんだか溝ができてさ。辞めたくはなかったさ、だけど限界になった。追い込まれた。……住んでいる場所も、とにかく向こうに知られないように夜逃げめいた引っ越しをすることになった。ようやくここで……どうにかやり直すためにここへやってきたんだ」
 静かに聴いている僕に、安土は溜めこんでいたものを更に晒け出してきた。
「大体、初鹿とかいうのが君に電話をしてきたっていうのも、それを経由して佐久がこちらの居所を探ろうとしてたとか、そんなのじゃないか」
 黙っている僕を、安土は完全に味方だろうと考えて安心して話していた。……だけど僕の頭にはイメージがゆらめきたっていた。
 暗く明かりのないざらついた地下の空間に横たわる女の身体、魂が抜けながらもなお、その指先が何かを掴もうと曲がっている……自制していたものが、突然こぼれ出した。
「なあ、あの地下室をちょっと見ていいか?」
「……なんだ、突然」不意打ちできょとんとした安土に、構わず言葉を続けた。
「何か気になってさ」
「関係ないだろ、今、そんなこと」信じられないというような顔で見返してくる。「お前、なんでそんなこと言い出すんだよ」
「気になるんだ、何でか、良くないような」自分でも唐突で支離滅裂と分かっているが、止められなくなっていた。
「いや、おかしいだろ、突然そんなこと言いだして。まるで、まるで俺が」言葉を止めて黙り込んでこちらをじっと見、噛み潰したかのような声で「……お前もかよ」
「安土、違うんだ」
「つまり、お前は、俺があの下に」
「そんな事、思ってない」そう言いながら、まさしく頭にこびりついているのは「その事」だった。それが本当であったら……その後のことも考えられず、頭が回りきっていないまま切り出してしまったわけだ。
 安土は無言で立ち上がった。
「安土」
 何も答えず例の四畳半に向かう彼を追った。前と変わらずすっきりとしたままの件の部屋に入ると、畳の隙間にドライバーを差し入れ、浮き上がらせた畳の縁を掴んで乱暴にひっくり返した。
「いやなんだよ、ほら、土ぼこりが上がってさ。何こんなことやらされてるんだか」独り言のように、僕にあてつけるかのように言いながら板を取り外して床下を開放した。部屋に置いたままになっていた軍手をして例の鉄板の取手を持ち上げると、下方へ降りていくコンクリートの階段が現れた。
「さあ、見てくれ。好きなだけ見てくれよ。ほら」僕をなじるかのように言う。
「安土」
「あそこまで言ったんだから見ろって言ってんだよ!」
 縁に立って電燈が照らす、奥行きを見た。くまなく光の当たる場所は空のままで、ざらついた床も壁も何ら新しい手の加わった気配はない、冷たい空間だった。冷え冷えとした空気の中、何も言えなかった。
「今日は……送っていけないな」目を合わさずに安土は言った。
「悪かった、本当に」声をかけたが彼は答えない。「……戻すよ」
「結構だ、一人でやるよ」取り付く島もなく、突き放すような返事で打ち切られた。
 彼の家を出、駅までの距離のある道を歩いた、人の姿の見えない、郊外の緑の多い道行き。
「やってしまった」一人、みじめな気持ちで日没で暗くなりゆく途上をただ歩いた。

 アパートの自室に戻り、リビングに入るともう何をする気力もなくなっていた。このまま眠ろうにも、すぐに彼とのやり取りが頭の中に甦り浮かんでくる。
 しばらくして冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。ビールだけを酔うために煽り、そのアルコールが回り始めて少しずつ感情の棘の痛みが麻痺してきた。床に座り込み、額に手を当てながら、自分の馬鹿さ加減に呆れ果てながら2本目も飲み干した。
「謝らないと」
 テーブルに放り出したスマホを手に取りじっと見つつ、酒の入った頭であれこれ考えていたが、どういうきっかけにするか上手く思い浮かばない。次第に身体ももの憂くなってきて、缶をテーブルに置き床の上にそのまま寝転んだ。
 ……佐久は、安土の住居を知らなかったのだろうか。これまでのことを思い返すと、既に知られてしまっていてもおかしくはない、既に知っていて、既に見張っていて、そうして既に訪れていたのなら、と思ったのだ。

 何もない天井を見上げながら、酔いの中で考えが漂っている。
 だったら、誰にも悟られずにそのままで良かったじゃないか。初鹿がわざわざお節介でこちらに連絡をしてきたおかげで、敢えて忘れていた佐久のことを思い出させられた。誰にも知られずに近づいていたら……
 そう、そもそも佐久は……学生時代から、どうして相手に嫌われ怒らせるようなことばかりしてきたのだ。嫌いならばかかわらなければいいのに。からかうにしても度を越しすぎているし、「好きな相手」の気持ちをかき乱してばかり。安土は持っていた温和な性格も完全に捻じ曲げられ、凄まじく怒りを放つようになって病んでしまい……
 わざわざ怒らせるかのように……いや、彼女はずっと怒らせてきたのではないか、意図して。
 目が滲んでくる。涙ではない。
 佐久は好きな相手を、わざと怒らせて……彼の気持ちを逆撫し、彼の領域を乱しまくって、安土に手を上げさせようとしていたんじゃないか。
 ……いや、あり得ない。これは普通の考えじゃない。
 ……だが、彼女がもしも無事ならば、初鹿の介入はなかったのではないか。左手に持ったままのスマホを強く握った。
 佐久が、もし……既に安土の前に現れていて、既に二人で対峙していて、制止する者のいない、あの家の中ですべて終わっていたとしたら。天井を見たまま考える。
 地下室は確かに空だった。あの時は。
 だがあの家全体ではまだ確認していないところは他にいくつもあった。
 一度確認したあの地下室は、死体の隠し場所として今やもっとも安全な場所になっているんじゃないか。
 安土は……本当にいい奴で……友達だった。でも、それだけは許されない。どんな人間であろうと超えてはならない一線が。
 スマホを顔の前にかざす。
 警察の前に……初鹿に連絡をするべきではないか。自分の詰めの甘さで、疑惑がそのまま残り、でも僕一人には再度あの地下室を開ける根拠がない。初鹿を経由してこれまでの経緯を説明して善後策を考えれば、あるいは……。
 友人を……友人だからこそ、許されない行為は……素面ではないままに考えが錯綜し、片手で顔を覆って決意をした。
 ……初鹿に連絡するために、スマホの画面に指を当てた瞬間だった。
 耳のすぐそば、すれすれで声がした。

『余計なことするな』

 指が止まり、半身をねじって飛び起きた。床の周囲、声のしたあたりを見回した。僕の体からは酔いも血の気も引いていた。
「あの声」だった。
 青ざめたまま、倒れた缶から飛び出した、小さなビールの水溜りを見た。
 そして慄然と理解した。
 今、あの地下に彼女の骸があるとするならば、それは彼女が望んだことの成就の形であり、完成形なのだ。
 佐久は自分から安土の手に縊られるために彼を訪れ、その通りになったのだろう。殺人者となった彼は世界から孤立し、過去の絆もすべて断ち切られもうどこにも行けず、死体を隠し続けなければならない。……今や彼は彼女だけのものになった。彼を愛する女は他にいない、ただ一人だけ……彼は自身が殺めた女の、その異形の愛に囚われることになった。
 黒猫は、自らあの地下を自分の墳墓にしたのである。



令和03年05月28日(金)
令和03年09月09日(木)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?