見出し画像

[掌編]Rain , Smoke , and Speechless


 ……夜勤の早上がりで半端な時間の帰宅だった。日の出までまだ時間もある。人の行き来のまるでない暗い刻限、ただでさえ灯りの少ない道を歩き……ゆるやかに登る道路を上がり、高台になっている土地に立つ、自分のアパートにたどり着いた。
「帰ったら……すぐに寝くたばって昼間まで起きれないな」ぼんやりと思い、自分の部屋のある一階部屋のドアの並びの通路に向かった。二階に上がる階段の横を通り過ぎた時、階段の下にある空間、その暗がりから人の声が聞こえた。
 ぎょっとして立ち止まり、じっと目をこらすと、ひとかたまりのブルーシートに包まれた荷物の山の一角、腰を下ろした小さな人影が、妙な節回しで歌っているのが分かった。
 ……驚き逃げ出すよりも、好奇心が勝った。少し近づいてよく見ると、身体の大きさは子供のようだが、声も低く顔には皺が刻まれた老人だった。
 少し考え「これは真夜中に徘徊してしまったのだろうか」、と思い当たった。
「こんばんは」驚かさないよう、優しく声をかけた。「こんばんは。お名前は?お家はどこだかわかりますか?」
 迷子に言い聞かせるように声をかけたが、目を向けることもなく、老人は泣きそうな声で不思議な歌を歌っている。日本語には聞こえない、外国語に聴こえるのだが……デタラメの歌だろうか。
 微かな明かりをたよりに、しばらく横顔を見ていた。老人の真っ白な髪、伏し目で奥まで覗き込めない目元は眉の下から奥まったように引っ込んでいる。彫りが深い顔立ちが日本人離れしている。
「何の歌なんです?」
 試すように声をかけたが、やはり返事はない。
 早上がりだったが、身体は疲れ果てている。できれば早く寝たいけれども、こんな真夜中、年寄りを一人で放ってなどおけない。どうするか……。
 スマホで警察に連絡をして、尋ね人の情報を照会してもらい、保護に来てもらえればそれが一番か。しばらくは傍にいて目を配って、やって来た時に引き継ぎをすのがいい。
 悲しげな歌声は続いている。
 一瞬、「ホメロス」という名前が頭に浮かんで、そして消えた。
 何故、その名が出たのか分からないまま、動きが止まったが我に返って頭を振り、自分のすべき行動を思い起こさせた。
「……一一〇番でいいかな」
 電話の画面、キーパッドを出して指で数字を打ち込み、最後のボタンを押す前に老人の方を伺った。
 歌声が止み静かになっていた。見るとブルーシートの一山があるだけで、老人の姿がなかった。
 とっさに隠れ場所になりそうな物陰の裏を見、通路と階段の周辺、道路まで出て周囲を確認した。
 夜更けの空、まばらな雲が浮かぶ隙間から月の輝きが漏れ、無人の道路の周囲が冷たく白く照らされてる。
 老人の姿はどこにもなかった。
 雲が動き再び月明かりを隠す。
「幽霊……見ちまったかな」しばらくその場に立っていたが、それよりも疲れていた。恐怖よりも、もう一刻も早く寝床に入って眠りたい。
 自室の扉の前まで行き、「さぁ、怖くない怖くない、寝るぞ寝るぞ」と一人静かに歌いながら帰宅をした。

 ……雨音が耳に入ってきた。「降ってるな」と目を閉じたまま聴いていた。まぶたを透かして夜の明けた光が分かる。目を開けると、カーテン越しに頼りない午前の白さが見える、枕辺に置いたデジタル時計は八時。寝直そうと思ってしばらく目を閉じたが、眠りを掴み損ねて目が冴えてしまっていた。二度寝を諦め寝床を這い出し、カーテンを左右に払い、窓のサッシを開いた。
 柔らかい湿った風が僅かに吹き込む。鈍色の雲からひっきりなしに雨が落ちている。眼下に滑り降りていく住宅の屋根屋根の連なりの眺めは一面濡れている。雨雲はそれほど厚くなさそうだ。午後には雨は上がっているだろう。
 小卓に放り出してあった煙草のパッケージとライターを手に取り、ごく自然に握って間を置いて「ああ」と声を出した。「そうだった、しくじった。帰り道でコンビニで買って帰るつもりだったのをど忘れしてた」
 パッケージには最後の一本があるだけだった。晴れてたらサンダル履きで散歩がてら買いにいけたんだが……タイミングが悪い。
「とりあえず一服しようか」
 煙草とライターを手に、通路へと出た。

 雲の上の太陽で戸外は仄明るいのだが、雨足は意外に強い。コンクリートの通路の脇、ブロックを積み上げた境目に沿って、雨のしぶきが届かないのを確かめてから一本に火を付けた。通路の中程に共用の灰皿代わりのペンキ缶があり、水が入っている。
 このおんぼろアパートの、何よりも替え難い素晴らしいところは、現状、入居者に嫌煙家が……少なくとも表立っては……いないところか。昨今では隣あわせた住人次第では文句をいわれてしまいそうだが、知る限りここの入居者はスモーカーが多い……。
「おはようございます」一階の住人マリさん……やや強面の男が顔を出した。営んでいる『マリポサ』というバーの店名からの愛称であり、本名よりも周りに馴染んだ呼び名になっている。互いにラフな格好で挨拶を交わして向こうも自然に煙草に火をつけた。
 ふと階段の下の空間を見ると、ブルーシートに覆われた荷物の山がある。夜中の一件を思い出したがちょっと記憶が怪しくなってきた。早上がりで帰宅したのは事実だが、あの老人を見たのは夢の中だったような気がしてきた。
「ああ、今朝の資源回収は中止で来週になりましたよ」マリさんが言ったので、え?とそちらを向くと「いや、降っちゃったでしょ、雨。濡れちゃうから、モノもヒトも」
 そうか今朝は自治会の資源回収の予定日だったかと思い当たった。
「昼過ぎには止むらしいけどね」とマリさんは空を見て付け加えた。
 一本を吸い終わり、吸い殻を灰皿に落とした。
 あのブルーシートに覆われた一山が気になって仕方がない。そちらに近づいて、改めて見てみる。階段の下のこのスペースは以前から一時置き場のように、共用の退避場所として使われている場所だが。
「資源回収に出す予定だったヤツですよ」マリさんが後ろから声をかけてきた。「来週に出すことになります……晴れてたら」
「雨は吹き込まないでしょうが、湿気ちゃいそうですね、何だろう」
 ブルーシートは積み上げた一山全体に上から被せて、一回りビニールロープを廻して簡単に固定してあった。
 しばらく見て、足下、隅の端がめくれそうなのを見つけた。好奇心が勝り、そっとシートの縁を摘んで上げてその下を覗くと、渋い小豆色の、函入りハードカバーの揃い本の束が見えた。
「……号室の人、先月にもう引き払った人のですわ。持ってかないでここに置いて処分を任せていったみたいで」
「随分とありますね」
 見える範囲での背表紙からすると叢書全集の束が確認できる。海外の近代から現代……それでも半世紀以前の著者名が並んでいる。文学者や学者だ、公立図書館の棚にずらりとありそうな。
「どこかの先生とかだったんでしょうか」
「そんな雰囲気はありましたね、中学か高校の……身体を壊したとかで田舎に帰るとか、そんなふうに聞きましたよ」
「……勿体ない気がしますね。こんなに沢山、本を集めていたのに、まるまる置いていくのかな」
「人にはそれぞれ、言うに言えない事情とかもあるだろうからね。ここにいるみんなも、ここから去る人にも」煙を吹き出し「管理人さんが処分を任されたらしいけれど、『欲しい人がいたら抜いていってもいいですよ』とか言ってました。後で一声かけるとして、気になるのとか取っておいてもいいんじゃないですか」
「そうですね……」
時間があれば……ここら辺のものを読んでいきたいのは確かにそうだ。背表紙の見えない他の本の中にも何かあるかもしれない。でも。
「……資源回収にまわるなら、業者さんから古本屋に回るでしょうね。そこで新しい読者の人たちの手に渡るでしょう」
 ブルーシートを戻して通路の端に立った。雨がまだ続いている。
 その住人を見たのは数回、挨拶は交わしたが話し込むこともなかった。壮年の小柄の男性で真面目そうなだった。彼の生活の傍にあったろうこれらの蔵書は、今度の旅立ちにはついてゆけなかったのか。
 ふと夜中の老人の歌声を思い出し、なぜだか「あれはホメロスだった」という思いが頭にちらついた。
「……煙草、一本いいですか?」振り向いてマリさんに言うと、彼は箱を差し出して一振り振った。礼を言いながら一本を抜き取るとマリさんはすっと華奢な細身のガスライターを差し出して火を点けた。くわえた煙草の先端に火を移し、紫煙をくゆらせた。
「貰い煙草とは風情がある……古き良き日本の風景」マリさんは自分でも新しい一本をくわえて訳の分からないことを言う。「他所は煙草の吸えないところばかりだけど、ここは住人ほぼすべてが喫煙オーケーなんで、それだけでも……いや、それこそがこのポンコツアパートにいる理由がある」
 それは確かに大きな理由だ。
「この雨が止んだら煙草を買いにいくんです」返事をするでもなく煙を目で追いながら言うと、ぼんやりと思い浮かんだ物語があった。

 ……はるか昔のギリシアで、詩人の名誉を持ちながらも消息を絶っていたホメロス。ある若者が「ホメロスを見た」という噂をたよりに彼を探す旅に出た。長い船旅の末、若者はある島にたどり着き、そこでホメロスの名を持つ、乞食同然のみすぼらしい老人を見つける。……貧しい羊飼いの温情で、家畜小屋の片隅で寝起きする盲いた老人は、呼びかけても返事を返さない。老人は本当にあの偉大な詩人だったのか?……

「そうだ。シュナックの短篇だ」その本は彼がここに引っ越してくる以前の、何回目かの転居の折りに手放してしまっていた。結末を覚えていない、どんな話だったっけか。
あの夜中に、悲しげな声で歌っていた……詩を歌っていた老人は、この極東の島国の、異国の言葉で綴られた、ギリシアの古い詩編そのものだった。そんな気がしてきた。
 ホメロスの幻であり、彼の詩そのものであり、夢や志を秘めそれらと決別し立ち去った人でもあり、そしてそれらはまたここにいる自分自身でもあった。
 詩を歌う代わりに……僕は煙草をふかしている。雨上がりには買い物を……煙草を買ってくるのだ。空の向う側を見ながら、雨降りの端がやってくるのを、待つ。

——詩人は泣いてはいなかった。生涯の終わりに当たって、もう詩人に涙はなかった。残されているものは、言葉、きれぎれの言葉だけであった。そして氷のような額の輝きと、目のない顔の雷雨の輝きだけを詩人はまだ持っていた。
     フリードリヒ・シュナック「ホメロスの蝶」(岡田朝雄 訳)

2021年(令和03)10月05日(火)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?