Daily Life - vol.011 - 平福百穂さんとか信仰とか

平福百穂(ひらふく ひゃくすい)さんの富士山を眼前にして身体の水分が震え、溢れた。雪降る富士山の山肌をはしる筆をじっと見ていた。そこに懐かしさがあったのは、わたしが雪国で育ったという身体の記憶。そして受けついだ信仰なのかもしれない。

日本には神道といって、自然物に神様をみる感覚があるという。はじめてそれを肌で感じたのは伊勢神宮だったかもしれない。ざわざわして、木々が話すような感覚があった。こうやって身体で感じてしまうと、わたしのなかに信仰が生きているのかもしれないと、また、思わされた。白い富士山だった。


わたしのなかの文化と信仰について輪郭をなぞったのは、富士の出来事からしばらくしてだった。海外出身の友達と話していて、所作や考えかた感じかたに、ちょっとの違いがあることを意識し始めたからだった。

はじめて食事をしたインドカレー屋さんで左手を使わないようにしていたとか、距離感とか、別れぎわの挨拶とかで、ちょっとずつ感じる文化の違い。信じてきたものの違い。

文化や信仰の相互理解って、どうやったらいいんだろう。どうしたらラインオーバーしないんだろう。どうしたら失礼じゃないんだろう。はじめての戸惑いをしている。

と同時に、自分にも戸惑う。こうやって揺らいでいるのは外的要因ではなく内的要因なのだと思う。わたしが富士山の絵や木々に感じたざわざわのことは、感受性の高さではなくて根付く信仰なのかもしれない。

いただきますとごちそうさまのように、毎日5回同じ方向に礼拝をするという違いなだけなのに。なぜそのことをどう受け入れるべきか、分からなくなるんだろう。お互いの信条理解って、どうしていくんだろうか。

友達はとても親切で、ひとへの愛がほんとうに素晴らしい。この年齢になってあんなにまっすぐな笑いかたができるなんて尊い。こちら側に歩みよってくれて、日本のことも私のことも理解したいと言ってくれた。もっと話そうねと約束をした。木の下で。

個人は個人なのに。個人のnatureの愛しさをそのままに愛しむのに難しくなる。育ってきた土壌netureのことが、愛をむつかしくさせるような気がしている。それを乗り越えるのは、やはり個人で、私がどうしたいのか?だと思うんだけれども。


だれかにとっては神様
だれかにとっては植物
だれかにとっては愛のやどる場所

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