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愛情と行動のこと


学生のときふとした友人との会話で、「え、おれギター好きやで?」と言われたことがあった。

彼はわたしよりもギターを弾けない。というか彼がギターを弾いているのを少しもみたことがない。

彼は人気の企業に就職を決め、現在も務めている。こういう人が就職活動で成功するんだな、と思った。いい意味でも悪い意味でもなくただそう思った。

わたしは昔から歌を歌うことがすきだが、あまり人前で「歌いたいです」と言えない。
それは明確に、自分の技能が「好き」に達していないと思っていたからだった。「おれ、ギターすきやで?」と言われたとき、ああ人はこんなに簡単に「好き」と言っていいのか、となにかがぽろっと落ちたことを覚えている。それはなぜなら本人が「好き」とそう思っているからである。

さて。それでもずっと疑問に思っているのである。彼は「ギターがすきなのか」ということである。わたしはそうは思えない。この時わたしははっきりと不愉快に感じたし、とても嫌な顔をして、「は?」というようなことを言ったと思う。それでも彼は「ええやん」と言った。

ええのか?

自分の中での好きを「好き」と社会に言葉にして放つとき、そこにある程度の責任が生じるとわたしは感じている。
なんかとても窮屈な感覚だ。これが自分の持つ責任感とか真面目さとかなんだろう。

推し活をする人たちは、不思議な購買行動をする。いかに自分が好きかを確認したいのかな、と思う(それがいてもたってもいられなくてやっていることだとしても)。その方法は人によっては自分の中で「好き」を消化させることだったり(誰にも見せない誕生日パーティをするなど)、あるいはたくさんお金を使うことだったり、ものを集めることだったり、違いがあっていいのであります。
でもじゃあなぜ好きと言葉に放つのかというと、それは社会の中に自分の「好き」を存在させる必要がある、あるいは存在させたい、と思うからである。

「好き」という言葉と、その行動の両輪がうまく回っていると、そこに生じる関係性が健やかである、と思う。たぶん。

好きだなって自分の中で思っているだけなら、わたしはいろんなことやたくさんの人が大好きである(『月に負け犬』を思い出す)。でも、それを「好き」と言葉にして世に放つ時には、多分なにかどうにかなりたいと思っているのである、わたしは。そうして人との関係性やものとの関係性を築いていくのだと思う、そしてそれができた方が人生は尊く面白いものになりやすいんだろうと。

時々、「あの人は目立ちたいだけで、本当に○○のことを愛してるわけではない/思っているわけではない」みたいな論調に出くわすことがある。
で、わたしもこの論調に立ちがちな人間であると思う。しかし、目立つ人は社会を○○によって盛り立てている事実が確実にあり、それは○○にとってはすごく大事なことでもある。

でも、納得がいかないって思ったりするわけです。美しくない、とか尊くない、とかそういう感情によって。

想いの大きさなんて誰にもはかれないので、はかる必要なんてないのだけれど、現実というものがもし存在するのであれば、わたしはその想いの大きさをできるだけ齟齬なく伝えて共有していきたいというエゴイズムがあるし、そうしている人が好きである。

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