行きたい世界

行きたい世界

ゲームの中の世界に行きたかった。遊びに行ける友達の家もない。自分から話しかけるのは画面の中のNPC。私を認識していて、ゲーム世界の一部として機能しながらキャラクターを開示してくれるから相互のやりとりがある。視覚で認識して、情報を受け取って、こんな生き物、人なんだと自分なりに理解する事象であることに、現実もフィクションもない。有機的な存在と、画面に映るもの、どちらも存在していることに違いはない。

現実で行きたいところがない、正確には画面の中の移ろい以上に自由がない。有機的ニンゲンはあまりにも数が多くて、情報が多すぎて、私の脳と体は疲れてしまう。聴こえる音は美しいほうがいい、視覚情報も考えたくないものを与えないものがいい。

ニンゲンは面白いと思う。ニンゲンの脳内で作られていろいろな形で出力されたものを感じるのは好きだ。
かわいい、かっこいい、きれい、苦いのに苦さがおいしさを引き出す。森羅万象の繋がりが無量大数みたいにある。ビフォア・クライストからの世界設計図があったり、地獄を詳しく教えてくれる。言葉と場所と時代が違うのに、考えていることは一緒で、ニンゲン個体も世界の設計の一滴で、赤血球や白血球やバクテリアみたい。

大きすぎてめまいがする。一粒一粒、一滴一滴のニンゲンを受け取るのは苦手だ。全貌が見えない、完結しない、なのに一粒のわたしは有機体として消える。消えたくなるほど苦しいことがある。なんのためにある感情で、何を動かすための機構として内面の事象は存在するの?

バーチャルの先に一粒一滴のニンゲンはいてほしくない。
苦しい思いをゲームで表現されていると疲れるのに、なぜかそういうゲームが好きだ。画面を作った一粒たちから伝えられる情報がわかりやすい、気持ち悪い、怖い、それでよくて、エンディングはゲームの情報のすべての肯定を意味する。

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