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『急に具合が悪くなる』を読む②

第2便 何がいまを照らすのか

本の感想というよりは、自分の人生に本を落とし込むような内容になっていきそうです。

のんびりと綴っていきたいと思っています。


第2便で磯野さんは下記のように書いています。

現代医療の現場は、確率論を装った〈弱い〉運命論が多い

医師が、患者へ未来の話をするときに、可能性として「悪い未来」に言及するのはままあることだと思います。

副作用や予想よりも悪化スピードが速かった場合、患者から「聞いてなかった」と言われることを恐れているのかもしれません。

ただ、患者からすれば、「悪い未来」が確実に、高い可能性をもって、自分を待ち受けている恐怖を感じます。

この時、医師にも、患者にも、誰にも落ち度も悪意もありません。ごくごく自然な流れでしょう。

また、このようにも書かれています。

「かもしれない」の中で動きが取れなくなる

これは、「コロナ」を取り巻く今にも言えるようにも感じます。

「コロナ」にかかるかもしれないからどこにも行けない、人にも会わない。

家の外に出たからといってすぐに「コロナ」にかかるかどうかは分かりません。

「かかるかもしれない」し「かからないかもしれない」。

「かかるかもしれない」と強く感じる人は、行動の選択肢がどんどん狭められ、身動きができなくなっていきます。

「かからないかもしれない」と思って外に出た人も、どこからか感染してしまった場合、自分の選択を悔んだり、自分にうつしたかもしれない人を責めるかもしれません。

「可能性」の中で「正しい」選択を選ぶのはとても難しいことだと思います。


宮野さんは返事の中でこのように書いています。

そもそも「選ぶ」って何だろう

患者が医師から与えられる情報も、患者が自らかき集めた情報も、それは世の中にある情報すべてではないし、誰かのフィルターを通った情報でしかありません。

「コロナ」に関してもそう。

政府(行政)であったり、専門家であったり、メディアであったり、口コミであったり、なにかしらのフィルターを通ったものがあふれる中で、自分が偶然見聞きした情報が、自分の中にためられていく。

そのためこんだ情報の中から、自分の過去の経験や今置かれている状況、自身の性格、いろいろな要素が作用して、行動を「選んでいる」。

これは「正しく」選べた、と断言できるのでしょうか。

誰にもそのジャッジはできないのではないでしょうか。

「選ぶ」ってなんだろう。


でも、私たちは常に「選択」を突き付けられています。

「正しい情報」を「正しく選ぶ」ことなんてできるのだろうか。

私にはわかりません。


私が、躁うつ病で倒れた時。

まず最初に思ったのは「なぜ私が」でした。

小学4年生から塾に通い、猛勉強をして、偏差値の高い学校へ行き、大学院まで出て、優良企業に入ったのに。

なぜ私が。

どこで選択を間違えたのか、と。

なぜ病気になってしまったのか、と。

なにが原因で精神病なんかに(当時は精神病なんか、と思っていました)なったのだ!と。

精神科の先生の前でも「なぜ私が!」と泣き出した記憶があります。

先生は「なぜ、は考えなくていい」とおっしゃいました。

何が原因でなったかはさほど重要なことではない、と。

原因を突き詰めたところでなにも変わらない、と。

今はゆっくりと身体を休めなさいと言われました。

それでも、なぜなぜ!と当時は思っていましたが、今では先生の話の意味がよく分かります。


生きていく上で、さまざまなリスクや恐怖が付いて回るのは、受け入れざるを得ません。

自分がこうなったのは、このせいだ、と思っても、「救われない」と私は感じるようになりました。

「なぜ」を追いかけまわしても、その傷は深くなるばかりだと思うのです。

でも、リスクや恐怖が襲い掛かってきた時、それを受け入れる、受け止めて、行動を選択することならできるのではないかと。

危険を避けることよりも、危険も含めて人生を受け入れて、自分が生きたいように生きる。

そのほうが前向きで、楽しい人生になるんじゃないかと考えています。

今もまだ探り探りの人生です。


今日はこのへんで。