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石神井と光が丘公園

 東京練馬区の光が丘は、「光が丘パークタウン(光が丘団地)」という新興住宅地と、練馬区最大の「光が丘公園」で構成されている。都営大江戸線の始発駅なので駅名だけは目にしても、訪れたことまではないかもしれない。石神井からは北に位置するが、せっせと自転車を漕いでいくとそのうち着いてしまう。電車を使う場合、西武池袋線でいったん練馬駅に向かうことになるので、乗り換えもあって遠回りだ。
 ショッピングセンター「光が丘IMA」内にホールがあって、ここで公演を観たことや、発表会を行ったという人もいるだろう。石神井に隣接はしないものの、それなりに土地勘が働く。
 少し前のことだが、季節はずれに暖かく、公園内の芝生にシートを広げているファミリー層を多く見かけた。光が丘公園の他にも、団地の一角にはいくつか公園がある。「春の風公園」もあれば「夏の雲公園」もあって、「夏の雲小学校」なんて素敵なネーミングではないだろうか。

光が丘のにぎわい

 光が丘一帯は、戦時中「成増飛行場」が建設されたところだ。本やネットで記事を読み、専門家の講義を聞く機会があったためか、石神井公園や近隣の豊島園と比べると、今の地図の形もどこか人工的に見える。白子川と石神井川に挟まれているが、水の気配があまりないのは、もともと空港にふさわしい土地だったのだろうか。
 1943年六月、太平洋戦争のさ中、畑から農家の立ち退きが始まった。十月には滑走路が完成したというから、かなりの突貫工事である。本土空襲に備えたほか、特攻機が出撃したことまで知ってしまうと、スポーツやバードウォッチングに興じる今の公園が違った場所に感じられる。成増飛行場にほど近い石神井にも、燃料補給廠や弾薬庫が設置されたそうだ。

 長い間、公園全体が成増飛行場と思っていたのは、私の誤解であった。滑走路は「夏の雲公園」の北端が滑走路の南端で、清掃工場の脇を通り、光が丘公園の中央までとのことだから、想像していたよりも南になる。なお、当時の跡が正確に残っているわけではない。
 思い違いはあったものの、公園の中で滑走路のごとくのびていくイチョウ並木は素敵だ。このイチョウは有楽町の旧都庁舎(旧東京市役所)前の街路樹から移植がはかられたものという。京葉線工事の支障になったためだが、邪魔な樹木がすぐに伐採される昨今とは大違いと言えよう。

公園へと続く道

 1945年八月に終戦を迎えたため、飛行場として使用された期間はきわめて短い。戦後跡地には米軍家族の住宅地「グラント・ハイツ」の建設が始まり、1968年の返還までアメリカの管理下に置かれることになる。この地に「光が丘」の名があらたにつけられ、米軍からの全面返還を果たしたのは1973年とのことだ。武蔵野にゆかりのある近代の作家の作品の中に、「荻窪」「三鷹」のように光が丘の名がないのは仕方ない。

 公園内のテニスコートの東側にこんもりとした緑がある。ここは三百年前から続く農家の「屋敷森」だったという。フェンスに囲われているのだが、散策は可能だった。
 屋敷森はもともと家屋を悪天候から守るためのものだが、きれいに整備されている。足元の土はふかふかし、井戸もあった。
 公園の隅にあるせいか、この場所は静かだ。すぐに一回り出来るぐらいの広さだが、季節ごとに花や実が見つけられるだろう。
 屋敷森の中に錆びた看板が立っている。判読不能だが英字が書かれていた。看板自体には説明がつけられていないが、ここがグラント・ハイツだった時の名残らしい。

「屋敷森」

 少し前、ベルリンの「テンペルホーフ航空公園」の特集をテレビで観たことがある。冷戦でベルリンが封鎖された際、物資輸送に使われていた空港跡地に造られたと知った。今は市民憩いの場で、広大な敷地でローラースケートをしたり、BBQをしたり、各々が好みの活動を楽しんでいる様子は、光が丘公園と同じだ。湧水池を伴い、武蔵野の自然保持が命題の石神井公園とは性格が違う。もともとが空港だった経緯で、その後の土地の活かし方もどこか似てくるのだろう。

「バードサンクチュアリ」。野鳥が観察出来る


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