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怒りで操られる恐怖、または怒りそれ自体への恐怖

先日、アルバイト先でのことです。一応飲食店でありますので、”仕込み”という作業があるわけです。おかずカップに黒豆を詰めて、それをまたジップロック・パックに詰めるという作業をしていました。2人で業務にあたっていますので、もう1人のスタッフがいます。50歳くらいのおじさんです。この際に年齢を提示する必要はないのですが、しかし、このほうが同意を求められやすかったり、想像していただくのも容易かと思った次第ですので提示しておきます。この方はかなり高いプライドを持ち合わせておりまして、何かと過去のエピソードを赤裸々と自慢げに自ら語りだしたり、社会という大きな概念(或いはそれを構成する秩序や規則)を後ろ盾にした正義を振りかざし、遠回しにまくし立ててくるのです。とにかく、そういうどこにでもいるおじさんです。もしかしたらそこらに跋扈するおじさんたちよりも更に小うるさい存在、普通のおじさんの上位存在にあたる、ありがたい存在なのかもしれません。

仕込み作業中にその方から次の作業に映るように指示を受けました。その時には、僕の作業はもう間もなく終わりを迎えようとしていました。ウサイン・ボルトが100メートルを軽く走って見せ、スタートからゴール線を跨ぐまで位には終わっているくらいに進んでいました。10数秒足らずくらいです。その方にも、仕込み作業が終わってから次の作業に映っても結果が変わらないことはわかっているだろうと踏んでいました。変わるとしても、結果が左右されない程度の些細な変化だと思います。しかし、僕の考えは甘かったようで、二言目にはもう語気は強くなっていました。「あともう少しで終わるので、これが終わって片付けてからにします」と弱弱しい声で、しかしはっきりと僕は言った気がします。「いやダメ、今すぐに」。返ってきたのは少々強い感情の混じった言葉でした。僕の視点からしたら、終わらせてから片付けて次に移ったほうが良かろうという判断に結び付けられる状況でした。「本当にもうすぐなんで、すみません」と下から物申します。僕はまだまだ青二才もいいところなので、そう言うしかなかったです。

さて、その後の返しが、僕にとってはとても不可解だったのです。その方は「しつこいな。あんまりしつこいと怒るよ」そう言いました。怒られることが大嫌いで大の苦手な僕なので、仕込み中のものとか片づけをすべて放置して次の作業に入りました。僕にとって怒られるというのは、大声で理不尽な言葉をさも全うそうにぶつけられることであったり、最悪の場合であるなら手を挙げられることです。親切にも宣言してくれたので、そこまでには至りませんでしたが、僕が相手の感情を沸点近くまでに熱してしまったという事実は変わらないのです。


アルバイトも終わり、帰路につきます。そこでは何を考えても自由なので先ほどのことについて考えます。怒ると宣言するという行為の意味不明さについて考えます。なぜ怒らなかったのでしょう。いや、あの強い語気に限って言えばハラワタの方はフツフツと煮えていたに違いありません。しかし、なぜわざわざ宣言してくれたのでしょう。とても不可解です。そして、気づくのです。あれは脅しの類であるということに。次に言うことを聞かなければ最後、私は誰の手でも(たとえ神の手でさえも)抑えのきかない鬼となり感情の赴くままにお前へ矛を向けるぞ、ということだったということに。となれば、納得できます。さらに、宣言するだけの余裕を持っていることについても狂気です。理性もあるのです。理性を持った怒りはとても恐怖です。それは荒ぶる感情に関してのありえないほど理不尽で理性的でそれっぽい根拠を無理くりに胸を張って饒舌に並べてくるのです。理不尽化と思いきや至極全うだと思ってしまうことも含まれていたりするので、とても反論はできません。ああ、やっかいだ。


ベンジャミン・フランクリン曰く、「怒りにはいつも理由がある。ただし、正当な理由はめったにない」と言う。アリストテレス曰く、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、そしてまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は賞賛される」と言う。これはその通りだと思います。しかし、先人たちのお言葉ですら、理性をもった怒りに対しては全くの無意味です。正当な理由は必要なく、”自分自身”が正当そのものだということが前提だから。ましてや賞賛などどうでもいいのだから。


「怒るよ」と強く宣言されてしまったのは生まれて初めての経験なので、驚いてしまいました。しかもあんなに細かいことで。いや、僕がそう思っているだけで、その方からしたら重大なことだったのでしょうか。30も年齢の下回る人間が、自分の意のままに動いてくれないことを気に食わなかったのでしょうか。ただの一回でも口答えをしてしまったことに腹が立ってしまったのでしょうか。僕がその方の思考をジャックしてしまえば真相が解明されるのですが、そんなことはできません。「なぜ」と問うことなど理性ある怒りの前では愚の骨頂なので、それもできません。怒りについての文献を片っ端から漁るにしては動機が浅はかだし、僕には教養がないので、漁るとしても他人の何十倍も時間をかけてしまう。僕は、ただただコントロールされるしかないのです。僕のように弱い弱い存在なんて、怒りなんて高級な感情を知る由もないのです。

今回の事象におきましては100%で僕に非があります。コントロールされることを拒んだのです。龍の逆鱗に掌目いっぱいで触れてしまうことと同意です。社会の現身の如く尊い存在に反抗してしまったのです。それはあってならないことで、僕の責任であります。事実の受け止め、時間をかけて受け入れなくてはなりません。そして次につなげるしかないのです。人間は考える葦だ、とはよく言ったものです。この調子ではすぐに摩耗しきってしまいそうです。だからこそ、人は成長していくなかで新たなる発見と知識をもって再生していかなくてはならないのでしょう。確かな正しい成長ではないにせよ、そうしていく他にはないのだと考えを改める必要があるのです。



殴り書きも終わることだし、ごちうさの画集でも見て精神を安定させましょうかね

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