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LOONA-Butterfly を踊る男性たちと、楽曲が示す少女性

LOONA『Butterfly』が描く少女性

 2019年2月に発表されたLOONA『Butterfly』は、私にとって大きな衝撃だった。

 揃いの衣装を纏い、長い髪をなびかせて、神聖な庭園を自由に舞う蝶のように踊る12人の少女たち。
 MVには、世界各国の多様な人種の少女たちが登場する。眠る少女、壁を蹴る少女、教室や街に囲われる少女。オーバーラップするのは、幻想世界で12羽の蝶のように舞うLOONAだ。そして、蝶の姿を象りつつあるサナギに、目覚めて高く遠く果てまで飛んでいく夢を見せる歌。この幻想的な作品は、「少女性」を正面から描いた崇高な芸術として、深く私の心に刻まれた。

 コレオが美しい。次々に移り変わる庭園の情景と、その中を舞う蝶の表現が幻想的で、あまりに見事だ。

 ところで、この作品を鑑賞した私の心に最初に思い出されたのは、ジブリ映画『おもひでぽろぽろ』のタエ子のセリフだった。

青虫はサナギにならなければチョウチョにはなれない。サナギになんかちっともなりたいと思ってないのに。あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節が再びめぐって来たからなのだろうか。

 『おもひでぽろぽろ』におけるサナギは、第二次性徴と嫁入りを暗喩していた。青虫はサナギの殻の中で、それまでの肉体をドロドロに溶かして失い、新しい姿を再構築する。羽化した蝶は、美しい姿で高く遠く飛び立っていく。

ChatGPTが示す、蝶というメタファーが持つ絶対的な女性性

 LOONA『Butterfly』然り、『おもひでぽろぽろ』然り、「蝶」というメタファーは「女性」を隠喩するものという相場があるようだ。
 ChatGPTに「蝶はどの性別を連想させますか」と質問したところ、以下の回答を得た。

 蝶は一般的に、女性や女性的な特質と連想されることが多いです。これは、蝶が美しさ、儚さ、繊細さなどの特性を持つことから、女性との共通点が見出されるためです。 以下にその理由をいくつか説明します:1. 美しさと儚さ:  蝶は美しい模様や鮮やかな色を持ち、その美しさは儚さを感じさせます。 これは女性が美しさや儚さを持つ存在として描かれることと関連しています。2. 変化と成長:  蝶は幼虫から蛹を経て成虫に変態する過程を経ることから、成長や変化を象徴する存在として女性に喩えられることがあります。 女性も成長し変化する過程を経験することから、このようなイメージが持たれることがあります。3. 自由と美: 蝶は翅を羽ばたかせて自由に飛び回る姿が見られ、その美しい舞いが女性のような優雅さや自由を連想させます。 女性が社会的な制約から解放され、自己実現を追求する姿を連想させることがあります。 一方で、男性には蝶のイメージが連想されることは一般的ではありません。男性のイメージは力強さ、堅実さ、勇敢さなどと関連づけられることが多いため、蝶の繊細で儚いイメージは一般的には男性には合わないとされることがあります。

 まとめると、「蝶」というメタファーは「女性」を示唆する。「蝶」が持つ下記の特徴が「女性」と関連づけられるからだ。

1. 身体的特徴としての「美しさ」と「儚さ(繊細さ)」

  • 身体的特徴を生物学的性によって分類したとき、女性的な要素は、一般的に「美しく、繊細である」とされる。

  • 男性の身体的特徴は「美しく、繊細である」とされない。

2. 変態を通じて成虫になる「成長」「変化」

  • 女性は成長し、変化する。または、変化する必要がある。

    • 女性は出産の機能を備えており、出産は新しい命の創出である。そのため、女性の体験を変化の象徴とすることがある。

    • 女性の社会的地位や役割の歴史的な変化は、男性に比べて大きい。この努力が、変化の象徴として捉えられることがある。

  • 男性は成長しない、あるいは成長しても変化しない。または、変化する必要がない。

3. 翅を羽ばたかせて飛ぶ「自由」

  • 歴史的に「女性」に対する社会的制約は強く、徐々に自由を獲得していった背景がある。そのため、「女性」は自由の象徴とされる。

  • 「男性」は歴史的に自由を勝ち取る必要のない性である(?)。そのため、「男性」は自由の象徴として見做されない。

蝶にはなれない「男性」

 LOONA『Butterfly』のMVに登場する少女たちが、身体的特徴として「美しく繊細である」か否かには触れないし、彼らの生物学的性が実際には何れであるかにも触れる必要はない。
 面白いのは、「女性」であるというだけで須く「貴方は美しく繊細な蝶のような存在である」というメッセージが投げかけられており、さらにそれが受け入れられる市場があるということだ。
 女の子はみんなプリンセスであり、どんな外見に生まれついても、「女性」であるというだけで幻想の庭園に揺蕩う蝶であり、いつか大きく羽ばたくことを夢見る美しく儚い存在である、というメッセージが通用している事実。

 仮に、生物学的性が「男性」であり、且つ表現する性が「男性」である人間がこの楽曲を表現した場合、それは誰にどのようなメッセージを発信するのだろうか。
 仮に、「男性は男性であるというだけで、美しく繊細で、成長し、変化し、社会的制約から解かれて自由に羽ばたく蝶のような存在である」というメッセージを発信したとして、それは市場に通用するのだろうか。
 それは商業的な成功を収めるのだろうか。

 女性は、女性に生まれたというだけで存在を認められる。
 男性は、男性に生まれたというだけでは存在を認められない。

 LOONA『Butterfly』は、女性として生まれ女性として生きる私の中にダイレクトに刺さり、強烈なインパクトを与えつつも同時に、「女性」であるというだけでエンパワメントしてくれるコンテンツが商業的に存在する不均等な世界を自覚させたのである。

生物学的性を超えるKPOPカバーダンスの世界

 あとは言葉は不要だ。下の2つの動画をぜひ見ていただきたい。

 ブラジルで開かれたカバーダンス大会にて、男性クルーで構成されたチームが、LOONA『Butterfly』のカバーダンスを披露した様子だ。

 それを鑑賞する男性たちの表情が特に印象的だった。

 これは、カバーダンスという非商業コンテンツだからこそ成し得た表現であり、発信できたメッセージである。

終わりに

 いつからか始まり世界中に拡大したK-POPカバーダンスというコンテンツは、非商業的である分、様々な「枠」を取り払う最高のコンテンツである、という話でした。
 自分の中でうまくまとまりきっていないのですが、一旦脳内にあるものをここに置いておきます。