ほら、コロナとか無関係に納税しつづけなきゃならない年齢だからさ。

 30を超えてから、ぴたりと言葉が出なくなった。何かを体験した時、何かに感動した時、脳内に溢れる言葉をそのまま文字に綴っていた日常はぴったりと終わりを告げた。それまで辛うじて綴っていた日記も滞り、以来日記を付けたことはない。

 ゲームをプレイして何かを達成した時、攻略の道筋を記憶して文字にしたためることができなくなった。何をどう考えて達成したのかを、そもそも記憶していないのだ。執着がなくなったと言い換えても良い。映画を鑑賞しても、感想を語り合ったり文字に起こしたりすることもなくなった。スクリーンに映し出される役者が表現する感情は所詮記号にすぎず、コンテキストにおける読み手の解釈の域を出ない。そういうものをどんなに集めたところで、満たされるのは作り手の承認欲求ばかりだと気づいたのはつい最近のことだ。否、とっくに気づいていたのかもしれない。

 世界はドラッグでできていると誰かが言っていた。得られない快楽を求めながら、手元の快楽を楽しむのが人生だと。四方八方何処に手を伸ばしても掴むのはドラッグばかりで、そのひとつひとつで空虚を満たしつつ、そのひとつひとつの負債を少しずつ背負い込んで生きるのが人間だと。あれは誰の言葉だったか。中卒で肉体労働に従事し、我が子を高校すら満足に出せない稼ぎで、年金を貰う前に身体を壊して不具となった父親の言葉か。

 ゲーム、映画、読書、そのどれも、誰かが自己満足のドラッグとして世に放った道具であるという認識はあった。それでも昔は、そのドラッグをドラッグとして楽しむ余裕があったのだと思う。知らなかった世界を知るたびに、見聞だとか見識だとかそういう目に見えないステータスが上がったという勘違いを信じられる年齢でもあっただろう。ゲームや映画の知識や感想を共有した人とは、精神が繋がったかのような満足感を得ていた。それが承認欲求というものだったと、後で知った。

 引っ越しの荷物を整理する中でふと、『人間失格』を手に取った。以前読んだのは大学生の頃だったから、実に十数年ぶりになる。太宰を青春のはしかと評する者は何人も見てきた。いつか過ぎ去る世迷言だと。はしかか。であればいつかこの空虚は過ぎ去って、青春の先に辿り着けるのだろうか。

 偉大なる太宰の言葉すら世迷言と一笑に付される世の中を、私は生きている。

 以前、特殊清掃を取材した番組を見ていた。孤独死した老人の部屋。老人とは何故あれほど物を溜め込むのかと思うが、自分が触れた物の一片だけでもこの世に残しておきたいという執着を、今の私は感じ取っている。部屋の片隅に、たくさんのノートが折り重なっていた。清掃員が一冊を手に取り、ページを捲る。日々の孤独な生活の中で、老人がニュースやテレビを見て感じたことが、言葉にして書きつけられている。何冊も何冊も積み重ねられた古びたノートの束を、清掃員は片手で無造作に掴み、ゴミ袋に突っ込む。

 その光景が今も脳裏を離れない。