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ノートを始めた理由

僕は日本のある病院で専攻医の身として医療技術を学ぶ途上にいます. 日本の研修医、特に後期研修医 (専攻医・修練医と呼んだり、シニアレジデント senior resident、フェロー fellowというイカした呼び名もある) は、日々の業務や当直に追われ、その日その日の患者さんや手術のことを考えるので手一杯. もちろん、それが我々resident (文字通り病院の住み込みというわけだ) の至上命題であり、存在理由であり、第一義的な職務です. 救急や病棟の急変で貴重な症例を得て、上級医のサポートの無いところで治療や手技が上手くいった時、それはかけがえのない経験になります. また、看護師やコメディカルからの「こいつはできる」という信頼を得るまたとないチャンスでもあります. そういった積み重ねが、優れた臨床家 clinicianや外科医 surgeonの礎となることに異論はないでしょう. しかし、自分の診療科や病院の業務に追われていると、どうしても近視眼的な考え方や価値観に縛られる気が僕はするのです. 自分が在籍している診療科や指導医の考え方に凝り固まってしまうと他の診療科や医師の論理が受け入れられないだけでなく、患者さんやその家族の価値観に疑問を浮かべてしまったり、その価値観に対して優劣をつけてしまったりすることが往々にしてあります. まあ、簡単に言えば気持ちに余裕がないというか、他のことまで気を回せないというか、「周りが見えてない」というか.

繰り返しになりますが、僕はまだ研修医であり、いずれ麻酔科専攻医になる身です. 毎日手術に入り、患者のバイタルをチェックし臓器保護に努めるのが麻酔科医 anesthesiologist, anesthetistの職務です. 現代になって様々な非侵襲的モニターが発展したとはいえ、麻酔は人の感覚に頼る部分がまだまだ大きく、一人前の麻酔科医になるには一筋縄ではいきません. まあ要するに、自分が理想とする麻酔には未だ大きな隔たりがあるわけです. つまり本来的に優れた麻酔科医になるには、私は目の前の麻酔に集中し日々の業務に追われるべきなのだろうと思います. そして、指導医たちも我々レジデントたちが臨床に専念することを求めています. しかし、トレーニングを受けている今だからこそ、ちょっと寄り道をしてみても良いのではないか、少し脇道にそれたことを考えてみても良いのではないかと僕は思います. 行列の絶えない人気店や星を維持している老舗料理店が路地裏やちょっと離れたところにあるように、大事なことは意外と脇道や廻り道の先にあったりするのではないか、と.

また、僕は今後30〜40年、いやそれ以上にわたって医者として働くわけですが、これから必ずしも明るい未来が待っているとは思えません. 大学生の時僕はボート部に所属していたのですが、よくお世話になっていたOBには入学した時にこう言われました. 「皆さん、入学おめでとうと言いたいところですが、皆さんの将来はお先真っ暗といってもいいかもしれません. 医者は安定した職業ではなくなります. せいぜい頑張ってください. 」高齢化が進み、人口がどんどん減少していく中で、医者の需要は減っていくでしょう. その中でも麻酔科医は相対的に余ると言われており、手術室の中で麻酔をかけていればメシを食える時代には必ず終わりが来ると僕は思っています. 医師免許を持っている自分から、医者であるということ(社会の中での存在意義といった概念も含めて)を抜くと何が残るのでしょうか. まずは臨床医としてトレーニングを積むことはもちろんですが、麻酔科医としての強みや特性を他の領域に生かしたり、他の分野の視点にアンテナを張ったりしておきたいなと思います.

記事は麻酔や公衆衛生などの論文の紹介や、アートに関しての記事、アイデアやものの見方についての短い記事などを更新していきます.

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