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アウシュビッツ訪問メモ②:あまりに広いビルケナウ

アウシュビッツ博物館の正式名は「国立アウシュビッツ=ビルケナウ博物館」。前回のメモで触れたたように、そもそも「博物館」にすること自体、関係者のコンセンサスが得られたものではありませんでした。

アウシュビッツ訪問メモ①:「博物館」化された遺産|中田 (note.com)

今でも議論があるこのポイントについて、博物館が出した一つの方策は、アウシュビッツ第一収容所を博物館的に整備し、第二収容所だったビルケナウの方はそのままの保存を目指すというものでした。第一収容所は原則的にガイドなしに中に入ることはできませんが、そこから1.5㎞ほど離れたビルケナウの方はガイドなしで入ることができ、中を自由に歩けます。

アウシュビッツ第一収容所でも殺戮は行われていましたが、より大規模に「選別」と大量殺戮が行われていたのは専らこのビルケナウでした。訪れて最初に感じたこと、かつ最後まで感じ続けたことは「めちゃくちゃ広い」ということ。1㎞×1.7㎞もの広大な土地であり、東京ドーム37個が入るというこの敷地は、歩いても歩いてもなかなか端まで辿り着きません。この大きさは来てみないとなかなか感覚を掴めないものです。かろうじて、こちらのメディアの空撮画像ではその広大さが少しは伝わるかもしれません。最初の16秒が第一収容所で、それ以降はビルケナウ。

An aerial view of Auschwitz-Birkenau (smh.com.au)

メモ①で「死の臭いがしない」と書きましたが、このビルケナウでは「死の規模」の片鱗を視覚的に感じることができます。1軒で約700人を収容したバラックが300も並び、全体で20万人をも収容したこの広大な場所で1日数千人もの人を2年にわたって殺し続けたのかと思うと、なるほど人類最悪の遺産と言われる所以も納得できるというものです。まさに殺戮工場。

有名なこの鉄道引込線と進入門はビルケナウのもの。『白い巨塔』のアウシュビッツのシーンで最後に財前が立ちすくむ印象的な場面もここ。唐沢寿明が立っていたのは「選別」が行われた駅のような降荷場(ランペ)なのですが、私も同じ場所に立って記念写真を撮ってきました。

ビルケナウの進入門と鉄道引込線

引込線上には、実際に輸送に使われた貨車もありました。窓もない家畜用の貨車に何十人もの人が立ったままぎゅうぎゅう詰めにして乗せられ、水も与えられずトイレにも行けない状態で欧州全土から何日もかけて輸送されてきたため、ここに来る前に死亡する人も大勢いたとのこと。

強制収容のための輸送に使われた貨車

映画『シンドラーのリスト』では、水も飲めない状態で詰め込まれたユダヤ人たちを見かねて、シンドラーが「ユダヤ人に放水していじめる」という名目で貨車の上から水をふりかけるシーンがあります。重い作品なのでもう一度見るのは心理的ハードルが高いのですが、しかしあの映画で出てくる数々の場所と道具の実物が目の前にあるかと思うと、もう一度見てみなければという気にさせます。

ここで少し、アウシュビッツにおける死者の数についての話を。アウシュビッツ博物館では、この場所で殺された人の数を110万人としています。読者の中にはこの数字にあれ?と思う人もいるかもしれません。もっと多くなかったっけ?と。

実はアウシュビッツでの死者数については否定論者だけでなく真剣に研究している人の中でも議論があり、未だその正確な数はわかっていません。戦争直後のニュルンベルク国際軍事裁判においてはアウシュビッツでの死者数が400万人とされたためこの数字が使われた期間が長かったのですが、ニュルンベルク裁判では通常の裁判のような綿密な検証が行われたわけではなかったため、ひとり歩きした数字でした。

その後、膨大な物証や証言を基にして検証が行われ、1995年には「150万人」に大幅に下方修正されました。2007年にアウシュビッツが世界遺産に登録された際には120万人に再び下方修正され、その後さらに修正されて現在では110万人という数字に落ち着いています。たまに「欧州ではホロコース否定するのみならず物証を元に犠牲者数を下方修正することさえ許されないくらい言論の自由がない」と言われたりしますが、実際には関係者たちの研究によって下方修正が続けられたことがわかります。おそらくは、否定論を蔓延らせないために、確実に見積もれる最低限の死者数を示しているという面もあるのでしょう。ガイドの人は何度も「実際にはもっと多いはずなんだ」とこぼしていました。

そして、死者数を見積もる上での有力な手掛かりが、上記の貨車で運ばれてきた人の数でした。貨車に詰め込まれた人の数と貨車が到着した回数の記録から、1日に運ばれてきたのはおよそ2,000人と推計できますが、労働可能とみなされて囚人として登録された人の数は1日500人程度でした。登録されなかった残り1,500人はどこに消えたのか?そのまま殺されたのです。ナチスによって記録された囚人の数が40万人であり、選別によってこの数は約4分の1になっていたのですから、殺された人の数は120万人と推計できるのです。

また、一般にはホロコーストの死者数は600万人以上とされており、こちらの数字を覚えているからこそ110万人という数字を少ないと思ってしまうこともありましょう。日本人の多くが(私も)ホロコーストは専らアウシュビッツで行われたというイメージを持っていますが、ホロコーストは欧州全土で行われており、アウシュビッツはその最大の収容・殺人施設だから象徴的に言及されるだけなのです。欧州各地に多数の強制収容所や絶滅収容所が存在して百万人単位で殺されており、その総数が600万人以上なのです。

ホロコーストの全貌については本書によくまとまっていますので推薦できます。「ホロコーストとは、狂気に満ちた独裁者ヒトラーがアウシュビッツで行うように命令して実行されたといった直線的なものでは決してない」と強調しながら解説しています。アウシュビッツなど個々の場所で起きた悲劇については詳述しておらず、全体像の描写に力点を置いているため、このテーマにしては心理的にも読みやすい本でした。ホロコーストの死者数に関するまとめと考察もあります。


ビルケナウの進入門からおよそ1㎞歩くと、鉄道引込の終点に着きます。そこは「クレマトリウム」と呼ばれる殺害・焼却施設があり、命が尽きる場でもありました。

鉄道引込線の終点。保全のために整備されている

クレマトリウムは4つ作られ、効率的に殺害できるようにガス室から焼却室が繋がっています。1日の焼却人数は最大で8,000人というのですからもはや想像の埒外。焼却炉からは今でも人の灰を検出可能なのだとか。最初は遺体を埋めていたそうですが、この地帯は沼地ということもあって夥しい血が地面に浮き上がってきたので、後から掘り返して焼き直したというエピソードもありました。


大量殺戮が行われたクレマトリウム。ナチスによって破壊されたまま保全されており、石一つ動かすことが許されていません。

冒頭に、ビルケナウは保全を目指すと書きましたが、しかしここは沼地ということもあって保全も容易ではないようです。なぜなら遺跡が自重で沼に沈んでいくから。

しかもナチスはこのバラックの建設にあたって基礎工事を行わず床を作らなかったため(これ自体が悲惨な生活を想像するに余りあるのですが)ますますバラックが歪みやすく・沈みやすくなっているそうです。いくつかのバラックは保全のために白い布がかけられていて工事中になっていました。「そのまま残す」ことの難しさが偲ばれます。

白い布で覆われたバラック。沈まないように保全処理中

見学当日は晴れていましたが、それでも足を取られるようなぬかるんでいる場所が多くあり、確かにここは沼地なのだとわかります。囚人たちは沼を歩くために木靴を履いて重労働に処せられたという話などは聞いているだけで痛い。

クレマトリウムの近くに灰を流した池があり、その近くに追悼碑がありました。ヘブライ語、ポーランド語、英語で書かれています。ガイドさんはこの前で2回、胸に十字を切っていたのが印象的でした。

追悼碑。ヘブライ語で何かが書かれた石が置かれているが、これはユダヤ人による墓参りの際の慣習とのこと

この4つの碑、すこし傾いているのが分かりますが、設置された当初はきっちり水平に並んでいたことが過去の写真からわかります。いかに不安定な地なのかということがこの碑の傾きからも推して知れます。

今回の訪問を通じてホロコーストが理解できたなどと言うつもりは毛頭なく、むしろ欧州の歴史や政治を理解するための足掛かりが増えたことが収穫でした。ここに来た後に関連書籍を開くと非常に読みやすいし、地理的な感覚も掴めるので、地名や地図が出てきても「ああ、あの近くね」とわかります。ウクライナ戦争が始まった時に多くの日本人がウクライナの場所さえわからなかったのと同様にポーランドも影が薄い国で、ぶっちゃけ私も今回ポーランドを訪れてみるまでワルシャワやクラクフの位置関係もよくわかっていませんでしたが、「来たことがある」というだけでも今後の理解が進みそうです。

日本人がそもそもホロコーストを理解する必要があるのかという点は指摘があって当然なのですが、少なくとも欧州は現在に至るまで政治的な力を持ち続けており、その歴史に何を背負っているのかを理解することは現代の欧州の動きを理解する一助にはなるはず。テーマとして暗すぎるかつセンシティブすぎるので職場などで話題にすることが憚れるのが難点ではありますが、とはいえこうしてインターネットを通じて体験談を共有できるだけでも価値があったと思わせます。

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