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アウシュビッツ訪問メモ①:「博物館」化された遺産

アウシュビッツに行ってきました。ワルシャワからクラクフまで電車で2時間半、そこから更に車で1時間半。ここに来よう、と思わないと来れない距離です。私が最初にアウシュビッツを訪れてみたいと思ったきっかけは世界初のドラマロケが行われた2003年の『白い巨塔』でしたが、劇中で「ワルシャワ出張の空き時間にふらりと立ち寄った」かのような演出になっているのとはだいぶ印象が異なりました。

私はこのドラマが好きだったのですが、アウシュビッツに来てみたいと思ったのは実はこのシーンに感動したからではなくて、周りが騒ぐほどには感動しなかったからです。アウシュビッツのことを知らないから、あるいは現地に行っていないから感動しないのだろうか?などと考えあぐねつつ、心の片隅に残り続けていました。

結婚してからは、もうアウシュビッツに行く機会はないのだろうなと思っていました。家族旅行で来るにはあまりに暗い場所ですし、出張のついでに来るにはあまりに遠い。しかし今回、土日をまるごと欧州で使える機会に恵まれたので、この際にと思って一人で行ってきました。妻は「私は小学生の時にアウシュビッツ展を手伝ったことがあって当時のことがトラウマだけど、行ってみるといいと思う」と快く送り出してくれました。

ちなみにアウシュビッツでは14歳未満の入場が推奨されていません。入場する場合も必ず大人が付き添うことが条件になっています。日本で小学生にアウシュビッツ展を手伝わせるのはちょっと酷だったかもしれません。

アウシュビッツに到着して最初の印象は「きれいなところだな」でした。きれいと言うと語弊がありそうですが、しかし数々の文献で見聞きしたような「死の臭い」がしないのです。目の前で殺戮が行われているわけではないので当然ではありますが、しかし臭いというのは最も原始的かつ本能的に危険を感じさせる語感であり、そこの空気の臭いが他の場所と変わらず澄んでいるということは、「ここは危険な場所ではない」という印象を抱かせます。

これは広島の原爆ドームを訪れた時に感じたことと似ていて、各地から来ている観光バスが並んでいることとも併せて雰囲気が類似していました。ここは「観光地」なのだな、と。

アウシュビッツ博物館前の駐車場。個人のみならず、各地から観光バスが所狭しと並ぶ

臭いについての話をもう少し続けると、私は大学院で生物系だったこともあり、自分も周りもマウスによる生体実験を行うことがありました。その時には独特の臭いがするので、外から実験室に入ってくると「お、いま誰かがマウスの脳みそをすり潰しているな」と臭いでわかったりするものでした。慣れてしまうと何ともないのですが、しかしそれは紛れもなく「死の臭い」でした。(ちなみに大学には「実験動物の墓」があります。実験に使える動物も過去100年でどんどん規制が厳しくなっており、昔は猿や犬や猫が使えましたが今では特別な許可がないと使えません)

アウシュビッツでは、あろうことか人間を相手に生体実験が行われていたのみならず、チフスが蔓延し、収容者は全員が常に下痢を催しておりトイレは使えず、毎日数千人もの人が焼かれるという、形容しがたい惨劇がありました。そんな場所の「臭い」たるや凄まじいものだったに違いないのです。事前の知識を元に無意識にそんな恐怖と覚悟を持っていたが故に、現地の空気がきれいであることに意外感を持ってしまった面がありましょう。こういうことは現地に来てみないとわかりません。

加えて、アウシュビッツ博物館の入り口は今年6月に全面改装されたばかりとのこと。ますます「きれいな博物館」というイメージに拍車をかけました。

博物館のエントランス近く。犠牲者1人につき石を1つ置く、というコンセプトでデザインされたとのこと。コンクリート打ちっぱなしの洗練されたデザインのエントランスになっています。


加えて季節的な要因も見逃せません。この時期、まだアウシュビッツには青々と緑が茂っており、気温も17℃はあるため、外観的・肌感覚的には悲惨さが伝わりにくくなっています。戦争当時の冬はマイナス20℃にもなり、収容者たちは布切れのような囚人服で働かせられ、雪と泥の上を走るのに木靴しか与えられず(※歩くことが許されなかった)、暖房もない部屋で寝させられていました。実際にマイナス20℃で雪の積もる季節に来てみると、視覚的・肌感覚的に悲惨さが伝わりやすいでしょう。今ここで囚人服に着替えて一晩を暖房なしで過ごせと言われただけでもう生きていられそうにありません。「欧州の人たちは夏のバケーションを利用してここに訪れるので夏が最も混むのですが、冬にも訪れてほしい」とはガイドの言。

アウシュビッツの緑。雪の積もる冬に来ると感想は異なるはず。

ガイドは16の言語で行われており、その1つは日本語です。ガイドはボランティアではなく、国からライセンスが与えられた人しかできない「仕事」です。なんと最初に採用した外国人(非ポーランド人)のガイドは中谷さんという日本人だったそうで、20年以上前に採用して以降、今でも現役でご活躍中。本書にその経緯などが書かれており、わずか70ページの本なのでアウシュビッツについて入門的に調べたい方にはお勧めできます。

残念ながら私が訪れた日は中谷さんは日本の実家に帰国中だったそうでお会いできませんでしたが、代わりに日本語ができるポーランド人が通訳をしてくれました。言語別にガイドが行われるので、私はポーランド語のグループに入って通訳ガイドと一緒に回ることに。

15分毎に言語別にガイドツアーが行われる

見学者たちは神妙な面持ちでガイドの解説を聞いていますが、印象的だったのは、私以外だれもカメラを向けていないということでした。博物館内は一部を除いて写真撮影が許されているので私は相当な数の写真を撮りましたが、ポーランド語(おそらくポーランド人)で解説を聞いている皆さんはあまり写真を撮る様子がありません。

ガイドの説明を聞く来訪者たち

これはもしかすると、3.11の時にも見られたような、「現地の惨劇は外国人の方がカメラを向けやすい」という現象なのかもしれないと思いました。東日本大震災において、遺体を含む数々の悲惨な写真を載せたのは専ら外国のメディアでした。国内メディアは、その遺体の家族の目に触れるかもしれないなどの配慮によって、あまりそういった刺激的な写真を載せない傾向にありました。アウシュビッツでカメラを向けるポーランド人が少なかったのも、同胞の遺体を気軽に撮るべきではないという意識が働いているのかもしれないと思わせました。現に、別のグループの韓国風と思わしき人は私と同じように写真を撮っていました。(ちなみに韓国人の来訪者は日本人の5倍とのこと。日本人が少ないという事情もありますが、韓国の方が地政学的にポーランドに親近感を覚えやすいという歴史的背景もあるのではと思われます。この件はまた別に記載します)

なお、グループの中には5歳くらいの男の子がいましたが、ずっとスマホで別の動画を見ていて、ヘッドホンでその動画に興じていました。上記の通り14歳未満が現地を見ることは推奨されていないが故に、親は「子供と一緒に視察するけど子供には展示を見せない」という判断をしたのでしょう


さて、有名な「働けば自由になる」の門をくぐって中へ。これを直接見ることができただけでも来た甲斐がありました。ただしこの門の文字部分は2009年に何者かによって盗難され、3つに切断された形で発見されるという事件があったため、今では本物は復元されて別の場所で保管されており、門に掲げられているのはレプリカだとのこと。『白い巨塔』で映っていた門と同じものを見られたわけではないのですね。

「働けば自由になる」。この文言、もとは19世紀のドイツの小説のタイトルで、後に一般的な労働標語として使われるようになったものであり、強制労働所のために作られたスローガンではない

館内には犠牲者たちの膨大な遺品である食器、靴、義足、鞄などが展示されています。これらのうち、唯一写真撮影が禁止されているのが2トンに及ぶ「髪」の展示。アウシュビッツでは男女ともに髪を刈られ、その髪は産業用としてドイツの企業に送られて繊維の原料になっていました。実際に刈られた総量は7トンで、残ったのが2トンとのこと。遺品と違って髪は犠牲者の身体の一部ということもあり、むやみに撮影すべきではないという判断が働いたのかもしれません。冒頭の『白い巨塔』ではこの髪の展示も撮影されているので、相当交渉したものと思われます。


食器1万2,000個


靴。実に11万足。
靴の展示だけで膨大で、この反対側の窓にも同様に靴だけの展示が存在


3,800個のトランク。その過半に名前が書かれていて、なぜなら「後で返すから」と言うことによって連行してきた人々をパニックにさせない意図があったとのこと

「この場所では犠牲者たちは番号で呼ばれ、個性を消されていました。だから私たちは彼らの個性を最大限に尊重しなければならないのです」とはガイドの言。ナチスは1943年までは収容者の記録を残していたため、復元できる限り彼らの写真と記録を留めようとしているそうです。1943年以降はナチス自身が記録することをやめてしまったため、正確な死者の数が分からなくなっているとのこと。アウシュビッツで亡くなった人の数は110万人とされますが、これは記録から検証可能な数であって、記録されていない人の数はもっと多いとのこと。記録があることとないことを峻別しようとする解説は歴史修正主義に対する牽制でもあるように見えました。

収容者の写真、出身地、職業、収容された日、死亡した日の記録。この人は1942年2月24日に収容され、わずか3日後に亡くなっていることがわかる。


延々と続く収容者の写真。全員がここで亡くなった

数ある展示と解説の中で来訪者がショックを受ける部分は異なると思いますが、個人的には子供をめぐる扱いがそれでした。アンネ・フランクがそうだったように、アウシュビッツでは子供でも容赦なく強制労働させられ、労働ができなさそうなら即座に殺害されました。大人には囚人番号を腕に焼き付けるのですが、子供の腕は小さいために太ももか胸に焼き付けたそうです。番号を焼き付ける面積さえない子供を働かせていたことが窺えます。

収容され強制労働させられた子供たちと、回収された彼らの服。かなり幼いものもある。

アウシュビッツへの110万以上の強制収容者のうち、子供は少なくとも23万人。そのうちナチスは囚人名簿として2万3千人を登録しているため、残りは即座に殺害したとわかります。最後まで生き残れた子供はわずか700人。収容者の中には妊婦もいたため収容所の中で生まれた子供も700人ほど存在したそうですが、ナチスはそのほとんどを即座に注射で毒殺するかバケツで溺死させたとのこと。ガイドは「ユダヤ人たちは虫けらのように扱われた」と解説していましたが、動物の赤ん坊に対してもこんな所業を犯すことは難しいわけで、まさに虫けらのような扱いを行っていたことがわかります。ユダヤ人女性以外から生まれた新生児の中には殺されなかった子もおり、上記700人のうち60人は生き残ったそうです。

しかしこういう話はガイドの解説があってはじめてわかり、展示そのものから当時行われたことのおぞましさを想像することは限界があるようにも思いました。だからこそガイドなしで回ることはできないのでしょう。逆に丁寧な解説さえあれば、ここに来なくても得るものは多いと思われます。ポーランドの子供たちは学校で必ずホロコーストについて学びますが、しかし必ずしもアウシュビッツに来ることが推奨されているわけではないということも教えてもらいました。場合によっては教室での丁寧なガイドの方が建設的ということもありましょう。

実際にこの博物館建設の際の方向性については関係者の中でも議論が真っ二つに割れたそうで、「現地は完全に取り壊して"博物館"にすべき」という意見から「完全に現場を"墓地"として保存すべき」という意見まで両極端なものがあったそうです。博物館なのか墓地なのか。前者は犯罪の証拠をなくしてしまい、後者は関係者以外が訪れるハードルを上げてしまいます。現在のアウシュビッツ博物館はその両者の意見を包摂する形で両方の機能を兼ね備えた形にしているとのことでした。私が想像していたアウシュビッツはより「墓地」に近いものだったが故に、「博物館」としてきれいに整理されたそれには少々意外感があったのは否めません。しかしだからこそ来訪のハードルが下がり、世界中から1日に1万人もの人が来れる場所になれたのでしょう。一時期は「追悼の場なのに騒がしすぎる、ここは観光地じゃない」という批判も上がったようですが、私が訪れたときには人は多かったものの静かなもので、厳粛な雰囲気は保たれていました。博物館側も試行錯誤が続いていると見られます。

アウシュビッツのもう一つの収容所、ビルケナウに行ったときの感想はまた少し異なりましたのでまた別の投稿にて。

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