無題

自分の意見を述べることが、得意ではない
私の言葉はどこか、耳障りの良い、聞いてる人たちが「期待する」ような言葉を吐いてきた
どこかで聞いたような言葉を言うのが得意だった

今も胸に突き刺さるのは
「そんなことではだめだ」と
遠回しに、しかしはっきりと言われたときだった

私は家に帰ってから泣いた
言い訳がましいけど
そういう自分が分かっていたし
分かってることを言われることに一番反発したくなるような反抗期の子どもだった

いつだったか、誰かに
「私は何かについて話すときに、一番最後でないと話せない」と相談したことがある
確か、
「大体そんなもんだよ」
とかって返された気がする

それまでとことん思考することを奪われてきた私にとって
考え、意見を述べることそのものが
苦行だった

そんな自分が嫌で、
自分の言葉をもちたくて
1ヶ月ほぼ家に帰らず
色んなところに行ったりもした

もちろんそれらは幾分か私の心を慰めた
その慰めは温かくなるものばかりではなく
時には冷たく、刺すような痛みを伴ったけれど

6畳半の部屋で一人本に没するのではなく
その土地に根ざしている自然や人と交わることで
気づく何かががあって

あらゆる情報がこんなにも発達していつでもどこでも受け取ったり発信したりできなかったときは
こうやって周囲の環境に耳を傾けていたのかもしれない

でもだからといってこの病が治ったわけではないのだ

どこかの誰かが言ってた言葉
何かの本で書いてあった言葉
それらだって、結局誰かの何かの言葉の引用だったり
するんだろうけど
それらの引用をすることの
何がいけないんだろう
とは思いつつ

だから
レポートを書くことは得意だった
教授が何を求めているのか
読んだ本たちは何を言いたいのか
大体分かったからだ
もちろんたったの2000字に
推敲に推敲を重ねて書いたものもあるけれど
それらは大抵、過大な自信のもとに提出された
予想通り「評価」は上々だった

つまり、私は「評価」が怖いのだ
「評価」されないと分かっていないと
自由に言葉を話せない

「評価」されると分かっているときは
人の話を聞いている間にも
言葉を発する前に何度か修正する

だから、誰にとっても大概耳障りがいい言葉たちなのだ

評価とは別に、5段階評価で〜とかGDPが〜
とかってわけではない

でも人々は大抵人の話を聞いてるときに
それは興味があるとかないとか、面白いとか面白くないとか、
好きとか嫌いとかその他諸々…
様々な感情をもったりもたなかったり
考えたり考えなかったり
そういう機微を敏感に感じ取るがゆえに
私は自分の考えを述べることが苦手なのだ

最近読んだ本で
他者は自分のことを、自分は他者のことを完全には理解できず、「ただ理解したい」だけなのだと
理解以前の状態に誤解があると
書いてあった

これ即ち本の受け売りだけれど
私は幾分か救われたのだ

それは誤解だから、理解した気にならないでくれ
私は自分自身に、そして私と関わる人の全てに

私は今一番自分がなりたくない人間になっている