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何を信じる?
今日授業を聴きながら、昔読んだ物語を思い出しました。
ゲド戦記を書いた作家さんの本のひとつ。
あるところにオメラスという町がありました。
平和な「ユートピア」で、素晴らしい町。
しかし、オメラスの子供たちは成長すると、ある場所に連れて行かれる。
地下にある牢獄。そこには1人の子供が監禁されている。やせ細り、盲目の少年。しかし彼を救うことはできない。なぜならこの少年の不幸によってオメラスの平和が保たれているから。この少年に食べ物をあげることは理想郷の終わり、オメラスに住む人々の不幸を意味する。
たった1人の犠牲によってこの町は成り立っている。
この事実を知った住人は激しく怒り、悲しむ。しかし、少年を解放することはできない。そのうち、「少年は知能が低いので理解できない」、「解放しても死んでしまう」などと言い聞かせ黙認するのである。
一方で少年の犠牲に耐えられなくなった住人は静かにその町を去っていく。
国際関係を学んでいると、きっと私はオメラスの住人の1人で、今の自分の幸せは誰かの犠牲によってあるものなんだと突きつけられます。
人間なんてしょうもないなと思ってしまいます。
皆さんは性善説と性悪説、どっちを信じますか?
私は人間誰しも元は善であると思っています。
善から悪になってしまう「何か」があるだけなのだと。
思っているというよりもそう信じたいだけ、なんだと思います
だって性悪説なんて信じちゃったら誰も信じられないし、何にも楽しくなくなっちゃうから
でも性善説を信じるということは「人に期待する」ということでもあるのかもしれないと思うようになりました。
「他人に対するこの人は善である」という期待は時に自分への刃にもなり得るような気がしています
善を信じるということは自分を犠牲にするということ
難しいですね。勝手に善悪のジレンマとでも言っておきましょう。
私は自分に刃を向けてでも善を信じていたいです
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