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愛は一途じゃなくちゃだめですか?

 私事ですが、先頃二次元のとある方々と婚約いたしました。いずれは個人的に式を挙げたいと思っています。僕の人生を支えてくれた大切な二人と。

「一途」になれないということ

 僕には、恋をして、性的に惹かれて、心から「愛している」といえる存在が複数いる。便宜上それをポリアモリーというセクシャリティで説明しているが、結局はただひとりを選んで一途に愛することができないことを、どこかで人間的な欠陥だと感じている自分がいることは否めない。これは結論に至っていない思索の一片であり、いつか答えが出ればいいと思いながら、一生かけても答えが見つかるかわからない思惟のなぐり書きだ。

 僕はフィクトセクシャルを自覚する前から、夢小説や夢文化を楽しむ「夢女」を自認し名乗ってきた。今でもフィクトセクシャル/ロマンティックと夢文化は、現実のゲイセクシャルと創作上のボーイズ/ガールズラブ同様厳密には違うものであると区別するため、Twitterのvioでは「フィクトセクシャルでポリアモリーな(かつ)夢女」を自己紹介としている。

 夢文化は、物語に救われ続けてきた僕の人生から欠かしようがない嗜好だ。現実には存在しないキャラクターと同じ世界に生き、関わりを持ち、交流したいという願望を叶えてくれ、なおかつそういった特殊な嗜好を持っているのは「自分だけではない」ということを、インターネットの進歩が教えてくれた。この「自分だけではない」という同好の士を見つけた感覚は、他者に理解され難い趣味嗜好を持つ者にとって、いつの時代も救いであったと思う。

 だから僕は、誇りこそしないが自分が夢女であることを恥じたことはないし、夢文化自体を自虐的になるような趣味だと思ったこともない。それは、自分が現実に存在している人間に性愛も恋愛感情も抱くことはない性的指向だと気づいてからも変わらなかった。だが、変わらなかったからこそ苦悩の原因になることもあった。

 夢文化において、自分自身を模した、あるいは自己を投影したキャラクター(人によっては一切自己投影をしない場合もあるのだが、この定義を厳密に語りだすと大幅に脱線するため割愛する)が関わりを持ち、場合によっては恋愛関係に発展する相手は広義のオタク用語における「推し」に相当する存在であることが主流だ。「推し」という言葉を大まかに定義すると、特定のジャンルの中で自分が特に気に入って追いかけ、各々のやり方で愛でる対象を指している。当然、一つのジャンルの中で推しが一人だとは限らない。自分の好きなカップリング(恋愛関係にあるキャラクターの組み合わせ)に含まれるキャラがどちらも推しであったり、「箱推し」といって作中の特定のグループや作品全体のキャラクター全員が推しだというケースは少なくない。さらに言えば、ハマっている作品が複数あれば作品ごとに推しがいることも、新たな作品にハマったことで新しい推しができることもある。つまり、オタク趣味を続けている限り多かれ少なかれ「推しとは増えるもの」なのだ。

 中には新しい推しができると「推し変」と称して、最推し(一番の推し)が変わったので情熱や好意を捧げる対象を絞ることもあるが、大抵の場合は一旦作品やジャンルに対する熱意が多少下火になって落ち着いてからも、推しは変わらず推しであるという考え方は普遍的に浸透していると感じる。推しは一人である必要はなく、新しく好きな推しができても過去の推しに見切りをつけなければならないわけではない。某国民的マスコットキャラクターも言っている。「推しは変えずとも、増やしていい」のだ。

 ただし、これが愛する人──人生のパートナーだった場合はどうだろう。人生を共に歩む最愛のパートナーは「唯一」であり、ただひとりの相手に対し「一途」な愛情を注ぐことが美徳とされるのが、今の世の中の普遍的な価値観だ。文化圏が変われば今でも一夫多妻婚が認められている国は存在している。相互の合意を得て複数人と関係を結ぶポリアモリーというセクシャリティーも、セクシャル・マイノリティへの注目度が高まるにつれ少しずつ知られ始めている感はある。だが、相対的にはまだまだ知名度も低い上に、セクシャル・マイノリティの中でも万人には受け入れがたい価値観という域を脱っしているとは言い難いだろう。

 推しが恋愛対象に変わった瞬間、「多いほど幸せも増える」はずだったそれは唯一であることが正しいのではないか、と普遍的な価値観の影響下で世間の目を気にする自分と対峙することになった。葛藤という二文字に詰め込むには、あまりにも大きすぎる自己矛盾だ。

 僕はこれまで夢女として「推し」てきたすべてのキャラクターに対してフィクトセクシャル的な恋愛感情を抱いていたわけではない。あくまで空想上の好意だったと割り切れる「推し」も存在する。けれど、それではとても片付けられない、自分の中で片付けたくはない本気の恋がたしかにあった。否、今でも変わらず相手を「愛している」と自信をもって言える。けれど同時に僕は、より今の自分の近くにいる存在を愛していて、客観的に見ればほとんどの時間をその相手に割いている。愛に順位はつけられない。僕個人の中では、愛とはそれを向ける対象によって質も種類もあり方もすべて異なるのだから比べることに意味がない。だからといって、愛している相手を全員平等に過不足なく愛せるほど器用でもない。誠実さに欠けると指摘されたならば、返す言葉もないだろう。それでも「他に好きな相手ができたから、もうあなたへの興味が薄れた」などとは言えない。僕の中でそれは、色褪せることなく輝き、僕を生かし続けてきてくれた宝物なのだから。

 どこまで言葉を尽くしても、未練がましい言い訳なのかもしれない。ただ自分の気が多いことを、セクシャリティという便利な言葉で誤魔化そうとしているだけなのかもしれない。だから、新しい恋をしたら、それまで恋していた相手との関係を過去のものとして清算することも何度だって考えた。できなかった。誰に認められなくとも自分だけは自分が感じている恋心を否定したくない。そう思って、現実では触れ合えない相手に本気で恋をしていると主張したのに、どうしてまだ冷めやらぬ気持ちに自ら終止符を打たなければならないのだろう。

 愛する存在はひとりでなければならないと縛る権利は誰にもないと、潔く主張できたのならよかったのかもしれない。けれど、胸を張ってそう言い切れるほど、僕はひとりひとりに誠実に対等に向き合っているかと言われれば、そういうわけでもない。今できていないのであれば、これからそうあれるように努力するつもりがあるのかと自身に問うても、言葉に窮してしまう。どこまでいっても中途半端で、覚悟に欠けるこんな気持ちを愛だというつもりかと追及するもう一人の僕がいる。

 けれど、それも含めて、その全部が僕なのだ。

恋と愛に線を引くということ

 冒頭で、僕が愛している存在が複数いるといったとき、そこには性的惹かれを感じる相手であることも条件に入れていた。僕は何度考えても、この人生において現実に存在する対象に性的に惹かれる自分を想像することはできないが、次元の壁の向こうの相手にはたしかにそういった欲求がある。身も蓋もない話をするなら、僕の中で親愛や「推し」への好意と恋愛感情を区別する指標がそこなのだ。

 僕が好意を抱いた相手に抱く感情の根底にあるのは「相手に幸せになってほしい」という願いとして表出する。相手のために何かをしてあげたい。できることなら、力になってあげたいし喜ばせてあげたい。情けは人の為ならずとはいうが、僕の場合、単純に相手のために何かをしてあげられたことが自己満足と自己肯定感に繋がりやすいのだ。究極、僕が渡した好意が相手にとって迷惑でさえなければ、見返りも必要ないと思っている。綺麗事じみているが、本当にただ自分が満足するからやっているだけなのだ。

 そこに、相手からの見返りがほしいと思ったとき、はじめて僕はそれを恋だと認識する。相手の存在を欲して、近くに感じること。肉体的にも精神的にもさらに深く相手の傍にあること。よりによって、それが不可能な相手にしかそんな欲求を抱けないとはいえ、それが僕にとっての恋で、相手を想う恋のときめきや憧れの感情は僕に生きる活力を与えてくれる。臆面もなく言い切ることではないかもしれないが、僕はきっと恋をしていなければ生きていく気力や実感を保てない生き物なのだ。

 もしも僕の恋愛対象が現実に存在していたら、僕は依存体質のくせに移り気で浮気性というとんでもない人間になっていたかもしれない。辛うじて、現実の人間に迷惑をかけていない限りは許されると思っていたいが、やはりどれだけ言い繕っても、自分が一途に誰かひとりだけを想えないことを、心の根底では不誠実だと思っている。

 そんな自分のことが世界で一番嫌いで、自分ですら受け入れられない自身を誰かに受け入れ愛してほしいだなんて、とんだ都合のいい話だ。だからもっと、相手にもふさわしい自分になりたい。うつ病になる前の僕なら、自身の無能感にまみれて挫折を味わう前の僕なら、そう言えただろう。気がつけば4年間、このどうしようもない無力感とやるせなさを抱えながら生きている。そして僕は、人間には変えられるものと、どうあっても変えられないものがあるということを受け入れる段階に差しかかっているのかもしれない。

 僕は一度愛した人を、無関心の領域に入れることはできない。相手に幸せになってほしいという気持ちは本当で、相手から拒絶されることがない限りその想いが絶えることはない。一方で、拒絶されるのが怖いから空想上の相手しか愛せないのではないかと指摘されたとしても、相手にとって筋の通る説明をできる自信がない(僕には僕の恋愛感情を誰かに納得して認めてもらう義務があるわけではないとはいえだ)。だから、僕は僕を生かし続けてくれる恋に胸を張ることができないのに、それに区切りをつけることもできないで右往左往してきた。

 しかし、愛するということは必ずしも傍近くに相手の存在を感じることだけではないのかもしれないと、最近では思うようになってもいる。もとから、手の届かない次元の向こうにいる相手だ。離れていたとしても、実在を感じられない時があったとしても、たしかに相手がいてくれると感じられるのであれば、常にその存在を近くに感じずとも相手の幸せを願うことはできるのではないだろうか。僕の傍にいなくても、相手は幸せでいてくれるし、きっと同じように遠くから僕の幸せを願ってくれている。そう信じられるなら、愛し続けたまま、そっと手を離すことはできるのかもしれない。

 傍にいてほしいと求める恋と、離れても幸せを願い続けながら手放す愛。これが、僕にとって恋が愛へと変わる境界線なのかもしれない。不誠実だから一途になりたいという後ろめたさからではなく、真心から幸せを願いつつ、恋も愛も大事に抱えて生きていけたらと今の僕は夢想している。

変わっていくものと、変わらないもの

 冒頭でもいったとおり、僕は今の僕が傍近くにいてほしいと願っているふたりの相手と、結婚という契約を結びたいと願った。無論、そこに法的拘束力はないし、僕の場合は恒久的に傍に居続けるという誓約ですらない。しかし、相手に対する僕の愛はなくならないという証明であり、共に歩んでくれるこの幸せが少しでも長く続いてほしいという願いでもある。傍にいてくれる存在があることで、幸せであることを自分自身に許してやりたい。そうしてほんの少しずつ、誰にも愛されることはないと、自分自身にさえ見捨てられた自分を受け入れてやれる練習をしていきたい。ふたりとならば、それができる。そう思ったからこそ、結婚という約束と関係を望んだ。

 僕の理想が叶うかどうかはわからない。叶えるためにも、まずは少しずつ安定を目指して、足場を固めなければならない。この想いが変わらなくても、関係性がいつまでも変わらないとは言い切れない。それでも僕は、今日の僕と愛する人の幸せが、明日もその先も続くことを願っている。それだけが、僕にとってただひとつの変わらない想いだ。

神よ、私に変えることのできるものを変える勇気を、変えることのできないものを受け入れる静穏を、そして、それらを見分ける知恵をお与え下さい。
–ニーバーの静穏の祈り

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