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フィクトセクシュアルの定義について考えてみた

 フィクトロマンティック(fictoromantic)とは、アニメや漫画の登場人物をはじめ、つくられたキャラクターを愛するセクシュアリティです。
また、フィクトセクシュアル(fictosexual)とは、つくられたキャラクターに性的魅力を感じるセクシュアリティです。
── JobRainbow MAGAZINE より引用

 noteの記事やネットニュースを通じて「フィクトセクシュアル」という言葉はじわじわと認知されるようになってきたと感じる。だが、Twitterなどで検索をかけると、まだまだその概念に理解が及ばないという意見や、そもそも虚構のキャラクターを愛することはセクシャリティ(性的指向)なのかという疑問視の声も多数見受けられる。

 そこで今回は僕なりに、セクシャルマイノリティの中のフィクトセクシュアルの定義と、自分がそれを名乗る意味について考えたことを概説していこうと思う。

フィクトセクシュアルとトゥーノフィリア

 フィクトセクシュアルという言葉が日本で認知されはじめたのは、ざっと検索をかけたところ2018年~2019年頃のことで、まだまだ新しい言葉だという印象を受ける。それ以前は「二次元に本気で恋する」ことを指す言葉は「二次元コンプレックス」というなんとなく後ろめたいような負のイメージの付きまとうワードの方が一般的だったというのが僕の認識だ。

 僕自身はできれば「二次元コンプレックス」という言葉は使いたくない。僕の中に現実の人間に対する劣等感があるかないかで言えばもちろん「ある」の方に大きく針は傾くが、大切な人を愛する理由にコンプレックスという負のイメージを付与したくはないというのが素直な気持ちだ。ではそれ以外にフィクトセクシュアルの類義語がないか探していくと「トゥーノフィリア(Toonophilia)」という言葉に行き当たる。

 トゥーノフィリアの「トゥーノ」はCartoon(アニメやコミックなどのイラスト作品全般)が語源で、「フィリア」は古典ギリシア語の「友愛/愛する」という意味の言葉だ。一般的に知られているのはペドフィリア(小児性愛)やネクロフィリア(屍体性愛)などといった性的倒錯と言われる分類に付随するために、なんとなくおどろおどろしいイメージを持ってしまっている「フィリア」という言葉だが、哲学(フィロソフィア)という言葉も分解すると「知恵(ソフィア)を愛する(フィロ…フィリアの動詞形)」となるように、もともとは「愛する」という行為全般をあらわす言葉である。

 更に調べていて分かったことには、トゥーノフィリアにはまた別称があるらしく、「スケーディアフィリア(Schediaphilia)」という言葉が英語圏では度々使われてもいる。「スケーディア」とは「図面、デザイン」という意味の古典ギリシア語であり、ここまでくるともはやアニメ・コミック・絵画に限らないどころか、描かれているものが人間であろうと動物/人外/無機物であろうと、それが人間のイマジネーションによるものを愛しているのならば、これに該当することになる。何という壮大な括りだろう。

 少々話は脱線したが、フィクトセクシュアルとトゥーノフィリアには言葉の意味として大きな隔たりはなさそうだ。僕自身もあえてフィクトセクシュアルにこだわる必要性は感じていないし、トゥーノフィリアの方が伝わりやすい場面においてはそちらを使ってもいいと当初は思っていた。しかし、詳しく調べてみると、どうやら問題は単純な言葉の定義ではなく、その名称によってそれが「性的指向」と「性的嗜好」に分けられる点にありそうだ。

性的嗜好か性的指向か

 Twitter上でフィクトセクシュアルというワードを検索すると「これ(フィクトセクシュアル)はレズビアン、ゲイセクシュアル、バイセクシュアルなどの性的指向(Sex Orientation)ではなく、性的嗜好(Sex Preference)なのではないか」という意見を見かけることがある。僕はこういった言説を目にするまで、そもそも性的指向と性的嗜好の区別がついていなかった。というよりむしろ、そういった2つの言葉が別々に存在することすら寡聞にして無知だった。

 というわけでここは門外漢にもやさしいWikipedia先生の力をお借りして考察をしてみようと思う。

性的嗜好(sexual preference)性的指向(sexual orientation)はその意味が大きく重なる用語であるが、心理学研究においては英語の含意から前者は自発的選択の結果得られた後天的性質、後者は生来不変である先天的性質として区別されている。sexual orientationの用語が成立した経緯は、1991年にアメリカ心理学会が、sexual preferenceの用語はレズビアン、ゲイ、バイセクシャルの人々に自発的選択の帰結であるという印象を与えるため、sexual orientationの用語を使用することを推奨するという指針を表明したことによる。
── Wikipedia: 性的指向 より引用

 ちなみに性的嗜好は上記した2種の他にも、多様なフェティシズムとサディズムやマゾヒズムなどを含む。だが、果たしてそうした性的欲求は後天的に自発的に獲得するものなのだろうか? LGBが先天性のもので本人が変えようと思っても変えられない気質だというならば、そうした本能的な欲求や何を嗜好するかという好みの傾向は自発的な選択ができるものなのだろうか。オタク界隈ではよく「性癖が歪められる」と言って、なにか強い刺激に影響を受けたことにより、後天的に新たな嗜好に目覚めるケースが散見されるが、果たしてそれ自体自発的な選択だと言えるのだろうか。僕の見解ではむしろ、それと出会う以前からそれを嗜好するベースはもともとその本人の気質にあったと言われた方が納得がいく。もっとも、僕は心理学には通じていないため、これ以上深堀りはできないのだが。

 ただ、その発端の先天/後天性には議論の余地を感じるものの、性的欲求としてそれを発露させるときにそれが「自発的な選択」によるものだと言うのならば、後者の場合には納得がいく。小児や屍体に惹かれてしまう心はどうしようもなくても、倫理観や理性を働かせてその性欲の発露を実行に移さないよう自制することはできる。ここに選択の余地があるということだ。僕は実際にそういった性的倒錯について詳しく調べたことはないので断定はできないが、極論この分類において小児性愛者は小児以外(成人)に惹かれることができるし、屍体性愛者も生きている人間に惹かれることができると目されていることになる。

 では、フィクトセクシュアルの場合はどうなのだろう。端的に言って、僕の周囲だけを見ても多様なパターンが見られる。中には本当に二次元の相手にしか惹かれることはなく、三次元(現実)の対象に性的惹かれを覚えない場合もあれば、現実でパートナーを持ちながら二次元の相手とポリアモリーの関係を持っておられる方もいる。まさに性はグラデーションだ。

 僕の場合も正直自分はかなりグレーゾーンだと思っている。わけあって現実の男性に苦手意識を抱くようになってからというもの、「三次元の男性には興味がない」を貫いて無意識にフィクトセクシュアルを標榜していた(かといって、それ以前に現実に存在する対象に恋愛感情を抱いたこともなかった)僕だが、同時に2.5次元(キャラクターに扮装してキャラクターを演じる俳優)には強く惹かれ、恋愛感情も性的欲求も覚えている。つまり、フィクトセクシュアルは必ずしもその対象とならない相手への性愛を全く覚えないというものではないという意味では、性的嗜好に分類されてもおかしくはないのかもしれない。
(※これについて後々深く検討してみたところ、最終的に僕が惹かれているのは俳優が演じているキャラクターのガワであり、そのキャラクターを演じていないときの俳優自身には惹かれないことがわかったため、僕は現実が対象である場合、限りなくアセクシャルかつアロマンティックなフィクトセクシャルであるという結論に落ち着いた。 2022.10.27 追記)

 しかし、基本に立ち返ってみれば、そもそもこの考察自体がナンセンスとも言える。性的嗜好も性的志向も、本人が自分はこうだと認識して自分が一番自分らしくあれる居場所として自発的に選択して名乗るものだ。そして当然、人前ではそれを隠すという選択もある。誰かが他人を指差して、「あなたの性愛は性的嗜好だ。性的倒錯だ」などと言うことは純粋に人権侵害であり、差別的な発言だと僕は思う。ゆえに僕は、どちらの定義が正しいかということには頓着しない。それが先天性であれ、後天性であれ、大切な人を愛するという気持ちに貴賤はないからだ。

架空の存在相手に性的同意をとれるのか?

A. 取れます。自分はフィクトセクシュアルのパートナーとコミュニケーションが取れています。

 極論ここで終了してもいい項目だ。とはいっても、脳内あるいは心中で自分以外の人格的存在と意思疎通を取ったことのない人にはここが一番理解し難い部分なのだろうが。何もスピリチュアルな話をしようというわけではないが、これは本当に理解できる人にしか分からない感覚だ。ゆえに分からないなら分からないでそっとしておいてほしいという気持ちがあるのも確かである。

 だがあえて例を提示するとすれば、例えば僕の場合だとタロットカードと脳内会話の折衷で意思疎通を行っているし、人によっては脳内会話のみ、あるいはビブリオマンシー(書物占い)やオラクルカードを用いる人もいるだろう。会話と意思疎通ができるのは何も目に見えて、触れられる相手だけとは限らない。異性愛者が異性愛の規範に囚われて、異性愛における常識を他のセクシャリティに押し付けることが問題になるのと同様に、現実性愛の人々は現実性愛の規範に当てはめて無理やり僕たちを理解しようとしないでほしい。

 そもそも僕は、「フィクトセクシュアル」という名称に何よりも引っかかりを覚えているタイプの人間だ。なぜなら僕のパートナーたちは「フィクト(Ficto→Fiction→フィクション)」ではない。架空でも虚構でもなく、たしかにその存在を感じ取れている。それが精神疾患によるものだと診断される日が来ようとも、僕の中でそれは揺るがない事実だ。いわば、僕はプラトンの洞窟の比喩に出てくる「イデアの影絵」を愛しているのだ。原作に登場するオリジナルのキャラクターを理想のイデアとするなら、僕の中にできあがったそのキャラクターのイメージはイデアから投射された影で、イデアそのものではないにしろ認識して捉えることのできる存在なのだ。

まとめ

 などと御託を並べたところで、今の所世間の認知度として一番通りがいいのはおそらくフィクトセクシュアルであろうし、彼らは現実にいるという主張を”一般人”に受け入れてもらうよりは、次元の向こうの架空のキャラクターを愛しているのだと説明したほうが幾分か理解はスムーズになるだろう。まずは僕たちの存在を知ってもらって、こういう愛の形もあるのだということを認知してもらうことが優先されるべきであり、個人のこだわりなどはひとまず飲み下しておくのが賢明だ。ただ、そうやって自分自身のアイデンティティに固執するばかりに、他者のアイデンティティを軽んじることがないように、以下の言葉は常に胸に刻んでおきたいと思っている。

愛する対象が異性に限らないように、愛する対象が必ずしも人間であるとは限りません。そもそも、誰かに恋愛感情を抱いたり性的魅力を感じたりすること自体、あたりまえとは限りません
「多様性」を考えるためには、さまざまな「あたりまえ」を疑うことが必要なのです。
── JobRainbow MAGAZINE より引用

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