見出し画像

ワイ将、矮小

ざす。

「ワイ将」というのはプロ野球において「虎将」「若大将」のようにプロ野球チームの監督を指す「将」と関西弁の一人称である「ワイ」を組み合わせたネットスラングのことです。

早起きはできませんでした。



アタリ本のコーナー

バレット博士の脳科学教室 7½章

【目次】
Lesson½ 脳は考えるためにあるのではない
Lesson 1 あなたの脳は(3つではなく)ひとつだ
Lesson 2 脳はネットワークである
Lesson 3 小さな脳は外界にあわせて配線する
Lesson 4 脳は(ほぼ)すべての行動を予測する
Lesson 5 あなたの脳はひそかに他人の脳と協調する
Lesson 6 脳が生む心の種類はひとつではない
Lesson 7 脳は現実を生み出す

要するに、脳の最も重要な仕事は考えることではなく、恐ろしく複雑化した、もとは小さな生物の体を運用することにある。

Lesson½

もちろんわれわれの脳は、考える、感じる、想像する、更には本書を読んで理解するなどの無数の経験を生み出している。しかしそれらの心的能力は全て、健康な生活を営むために身体予算を管理するという、重要な任務を遂行した結果によって得られるものである。

Lesson½

保護者が効率的に手助けしてあげれば、乳児の脳は自在にチューニングやプルーニングを実行し、健全な身体予算の管理ができる。

Lesson 3

あなたの体の変化は、周囲の人々の身体の変化を促す。またわたしたちは、行動を通じて他者と相互に身体予算を調節する。

Lesson 5

身体予算の調節を支援してくれる人が周囲にいないと、余分な負荷を背負い込むことになるからだ。

Lesson 5

「言語を処理する脳領域の多くは、身体予算管理を支援している主要な組織も含め、体内もコントロールしているから」

Lesson 5

〈社会的現実〉とは、人間ならではの能力なのだ。創造性・コミュニケーション・模倣・協力・圧縮(抽象)である。

Lesson 7

「身体予算」という概念を軸に脳の仕組みについて説明した本。脳という他人を真似て変化する操作者が身体という人形を動かしている図が浮かんでよかった。

引用が強い。クリティカルだし考える事もあんまないし文字数も稼げる。



人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?

本書の魅力は、このフレーズに象徴される「人工知能と人間の本質的な違い」
そして「知能と知性の未来」を、
◇プログラマからの卒業
◇科学からの卒業
◇天才からの卒業
◇人間からの卒業
という4つの章で見事に段階的に説明している点にあります。

そしてもう1つの読みどころは、著者が研究の最前線で遭遇した驚くべき事象や、
囲碁・将棋のプロ棋士たちの人工知能への反応を鮮やかに記述していること。

◇黒魔術化する人工知能
◇黒魔術の1つ、「怠惰な並列化」とは
◇ディープラーニングは 知能の大統一理論になれるか?
◇サイコロにも知能がある!?
◇囲碁は画像だった!
◇知能の本質も画像なのか?
◇科学が宗教になる瞬間を見た
◇研究者は「人工知能の性能が上がった理由」を説明できない
◇人類はこれから、プロ棋士と同じ経験をする

などなど、目からウロコの解説の連続で、既存のどんな人工知能の解説書よりも面白くてわかりやすい、必読の1冊となっています。

・「中間の目的」とPDCAで戦う人間の棋士
・「目的を持つ」とは意味と物語で考えるということ

人間は、あらゆることに意味を感じ、物語を読み取ろうとします。それは意味や物語から離れることが出来ないという制約にもなっています。

言語であれ何であれ、なんとか画像と結びつける事ができたなら、それは一気にディープラーニングの得意な対象になり、人間を超えてしまえるのです。

「言語の処理も画像として行う」
「知能とは画像である」

「知能とは画像である」。シビレますねぇ~。なんかAIの作成プロセスって「これくれ」「わかった」「これかな」「ええやん」の4要素で表せそうな気がします。アカシック・レコードの司書みたいなイメージ。検索エンジンとか。これはまた後で。



現象学という思考

日常においてはいつも素通りされている豊かな経験の世界がある――。“自明”であるがゆえに眼を向けられることのないこの経験の世界を現象学は精査し、われわれにとっての「現実」が成立する構造を明るみに出す。創始者フッサール以来続く哲学的営為の核心にあるものは何か。そしていまだ汲みつくせないその可能性とは。本書は粘り強い思索の手触りとともに、読者を生と世界を見つけなおす新たな思考へと誘う。

「思考する」ということは、行為に没入しているモードから、自我的な遍在モード(どこにもアクセスできるモード)に入ること

このとき私は、「考える」なかで、私から見た可能性の世界ばかりを覗いている。そこに他人が居ないのは当然である。実際に他者と交渉している場面から離れて、その場面を思考の中で再構成しているから、自我が支配的に居なってしまうのである。

行為よりもさらに、われわれをこのスクリーンの前から引き剥がしてくれるのが、「他者」である。他者の呼びかけは、私をこのスクリーンの包括的な遍在性から引っ張り出し、他者とともにいる世界へ、自分もまた一存在者として世界の中にいるモードへと私を引き戻してくれる。

そこで私は、一切を自我的スクリーンに包むような見方の方が、ある特殊な一時的エピソードであったことに気付くのである。

動きながら、動かしながら考える、あるいは動きながら考える事を想像するという仕方で、初めて見えてくるものがある。

思考らしい思考ー遍在モード(どこにもアクセスできるモード)における反省的思考ーへと無批判に身をゆだねることを自らに禁じながら、思考による変容を逆転的に遡り、その変容の出来事をもう一度生き直しながら、そこで隠されてゆくものに気付いていくような思惟が求められる。

お前ら万物は当たり前に不変だと思っとるやろ!!!!!でも当たり前の事じゃないんやで!!!!!変化から物の特徴を捉えるんや!!!!!とか

そもそも俺達は物を全部見てる訳じゃないのに物が存在してるって決めつけてエエんか!!!!????いやいや物には特徴があるからそこで存在してるって分かるんや!!!!!とか

うまくいかねえ時の齟齬から自分とか世界がどうなってるかってのをより正確に見ることが出来るんや!!!!!みたいな話をしています。哲学ですねぇ~~~。多分違います。すまんな。

ワイはこれを自己啓発っぽく見ました。露骨な自己啓発はそう…となるのですがこういった形で出されるとちょっとノってしまいます。オタクなので。

実質これ。グ刺さったので具体的に動いていきたい。グ。



今日はこんなところで。

それでは、さようなら~~~~~~~